ノーマライゼーション・教育ネットワーク
会員通信2021年夏号

【代表】新井淑則   【事務局】岩井隆
    〔ホームページ〕  URL:https://www.japan-normalization.com/
     連絡先〈 郵便 〉〒344-0041 埼玉県春日部市増富763-1 飯島気付
         〈 電話 〉090―2441―0938(岩井)
         〈メール〉rsj78162@nifty.com(宮城)

ノーマライゼーション・教育ネットワーク
第26回定期総会の開催に向け前進!

7月31日(土) 埼玉県障害者交流センター

 会員のみなさん、読者のみなさん、いかがお過ごしでしょうか。コロナ禍のなか、多くの社会活動が影響を受け、停滞を余儀なくされています。教育ネットもその例に漏れず毎月開いている定例会も3か月開けなかったことが2度もありました。それでも緊急事態の狭間をぬうようにして、コロナ感染レベルが下がってきた時期に定例会を行い、活動の継続を図ってきました。昨年度の定期総会は予想外のコロナ感染第2波にみまわれてしまい、無念の開催中止を判断いたしました。

 本年度こそ会員の皆さんの参加を得て、定期総会を開催しようと奔走しています。次ページの開催要綱をご覧ください。本年度は講演会を企画しました。埼玉県立大学副学長の朝日雅也先生をお招きして「埼玉の障害者雇用 その現状と課題」というお話をしていただく予定です。

 コロナに関しては未だに不確定要素が多く、ひと月前の現時点では「定期総会開催の最終判断」は下せません。が、安全・安心の定期総会の開催を目指しております。コロナリスクを最大限排除し、総会にご参加いただきますよう願っております。また、猛暑が予想されます。暑さへの備えもお忘れなく

2021年度第26回定期総会開催要綱

 開催日 2021年7月31日(土)
 会 場 埼玉障害者交流センター(048—834—2243) 第1・2会議室(2階)
 主な日程 
  9時30分 集合JRさいたま新都心駅改札口(改札口は1つ)→バス乗車
  10時 受付 玄関で手指消毒後、2階第1・2会議室で受付 
  10時10分〜11時40分 第1部 定期総会+25年を振り返りその先を問う
   定期総会に引き続き、今後の教育ネットのあり方・方向性などを話し合う
   自由討議を行う。
  11時40分〜12時40分昼食休憩
  13時10分〜14時00分第2部 「デジタル教科書って何?」 
   コロナ禍、急速に学校現場に普及するリモート授業やタブレット端末。そ
   の問題点の説明と実物を用いてのワークショップ
  14時20分〜15時40分 第3部 朝日雅也先生の講演
   「埼玉の障害者雇用 その現状と課題」
           朝日雅也先生のプロフィール
 埼玉県立大学保健医療福祉学部社会福祉子ども学科教授
 障害者職業カウンセラー等の実践を経て1999年から障害者福祉等の教育研究に従事
 日本職業リハビリテーション学会会長、埼玉県社会福祉審議会委員長他を兼任。
  16時 全日程終了
※総会に参加される方は、必ず下記の電話にお申込みのうえ連絡のつく電話の番号をお知
 らせ下さい。コロナ状況によっては中止・延期・内容変更が想定されます。その際はこち
 らからお電話いたします。
※会場までの誘導や案内を希望される方は当日9時30分にさいたま新都心駅改札口にお
 越し下さい。
※会場の障害者交流センターへは、センターの送迎バスをご利用下さい。10分ほどで到着
 します。駅東口3番バス乗り場よりご乗車下さい。運行間隔は15〜30分です。
※到着後、センター玄関で手指の消毒と検温が行われます。測定された体温はコロナ対策の
 一環でセンターで管理します。教育ネットでそれをまとめ会の終了後にセンターに報告
 します。総会会場の受付でお名前と体温を承ります。
※センターのレストランは営業していない可能性が高いです。昼食は各自でご用意下さい。
※本年はコロナ感染のリスクを避けるため、宿泊の予定はございません。
※その他、ご不明な点は下記電話までお問い合わせ下さい。
090・2441・0938(事務局長 岩井)

『全盲先生と142のひとみ』を観て

 6月6日(日)の早朝に「テレメンタリー」(テレビ朝日系)という番組で本会代表の新井淑則さんを追ったドキュメンタリー番組が放映されました。タイトルは『全盲先生と142のひとみ』です。番組を視聴しての感想等を3人の会員の方に寄せてもらいました。

まだ番組をご覧になっていない方は  スマフォやパソコンのYou Tubeでこの番組をご覧いただけます。「全盲先生と142のひとみ」で検索してください。               (編集部)

題名 : 教育ネット・会員通信への寄稿文

「全盲先生と142の瞳」の放送を拝見して。
人は、いつか様々な「ラストイヤー」を迎える事だろう。
6月6日放送のテレビ朝日「全盲先生と142の瞳」は、
今年、定年退職までの最後の1年を迎えられる新井淑則先生のドキュメント番組だった。
岩井先生からのお知らせで、放送が早朝のしかも30分間だと知って、
前夜は目覚ましをセットして早目に就寝した。
放送時間の中で、どれだけの事が述べられるのだろうかと思いながら。

翌朝、無事に拝見し終えた。番組の中で流れたことばの数々が、今も心に深く残っている。
ナレーションを担当したのは、りゅうちぇる。心に寄り添う声が内容としっくり合っていた。
新井先生は、「見えないからこそ、教えられる事がある」を信念に教壇に立たれて来た。
それに備えて、沢山の努力をされてこられた事は、私も音訳させていただいた著書「光を失って心が見えた」他に詳しく載っているし
数々の放送で知られている、

今年、皆野中学校の新学期、受け持たれている3年生の教室で生徒達を前にして、以下のように述べられた。
「もう時間は限られてますから。私も最大限の努力をします、応援もします。
ですからそれに応えて欲しい。
君達の事が大好きです。愛される人物なんだ、君達は。
だからそれを伸ばしていって欲しい」強い思いがほとばしっていた。皆野中学校3年生の皆さんは何と幸せな生徒達だろう。
現に、新井先生が校内で困っているのを見かけるとさっと手を貸すし、
昼食時には料理の配置をことばできちんと伝える事ができる・・・先生のご指導の下、みごとに成長した姿が眩しく見える。

かつての教え子、当時は問題児だった男性が再会の場面で語っていた。
「なんて言うんだろう…、先生の前では暴れ続けられない。
先生だけは、回りはそう言ってる(自分を評価しない)けど『そうじゃねぇよ』と言ってくれる人だった」

回りには、沢山の、進んでサポートをする人たちが集まってくる。
家族、同僚の先生方、支援・協力を惜しまない仲間達が力強く応援を続けている。
先生が定年までに、どうしてもしておきたいと思われている「後に続く人の支援」については、
高校教師で数年前に緑内障で失明された岡安さんの職場復帰のためのアドバイスや相談に乗るといった後押しをされ、
結果、今年の春、念願の復帰を果たした岡安さんは、「一人で教壇に立てた事だけで嬉しかった」と輝いた表情で語っておられた。
コロナ禍にみまわれた困難な中でのラストイヤーになってしまったが、大変だった時、
いつも口にされていたというのが宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」だそうだ。
中でも最後の部分が一番好きと語られていた。
ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ
この困難の中だからこそ、最後の最後まで教師としてのご自分の思いをきっと貫かれる、と確信に近い思いがした。
決して長くはない放送時間ではあったけれど、見終えたその日の朝の空気は大変清々しかった。
中島曜子

TV放映 テレメンタリー2021「全盲先生と142の瞳」から考える

鎌田公生 「雨ニモマケズ」

新井先生の好きな宮沢賢治の詩である。苦難苦衷を経験している者にとって、「負けず」というフレーズは、その繰り返しによって苦難に負けないという勇気が鼓舞される。

新井先生自身、失明という苦難苦衷を経験し、自暴自棄に落ち、悩み、苦しみ、もがき、絶望の毎日から復帰した。その姿、そのストーリーに、言うに言えない悩みを抱えるものにとって、勇気を与えてくれる。生きる希望が見えない者にとって、灯と写るのである。それは、なにも成人した大人たちだけのことではない。未来児たちにとっても、同じである。親に、いうにいえない悩みを抱えている未来児は少なくない。命で悩んでいる未来児にとって、眼が見えないのに、障害に負けずに生きゆく新井先生の姿に自身が励まされるに違いない。盲導犬の存在も大きい。愛らしい、その姿に癒されるのである。その動物のもつ力を医療の場、生きる力を失いがちな癌患者に用いる病院もあるほどである。

我が国の教育は、明治期における国家のための教育から、新憲法の下、軍国主義、国家の為の教育は排除された。教育基本法がそれである。旧憲法下では、戦争に行けない障害者は、役立たず、劣った人間とされ侮蔑的屈辱を受けてきたのである。障害者を抱える親も同じ痛みを味わったのである。その差別的感情は、現代においてなくなったのであろうか。いいえ、現代においても障害者は、ここで、あそこで、と冷水を浴びる。学歴重視社会によって、知識教育が重要視され、点数が人間を決めてしまい人間教育という本源が疎かにされてきた弊害である。思いやりがあったとしても、算数のテストの点数はあがらない。

思いやりとは、西洋では愛ともいい、東洋哲学においては、慈悲と言い換えることができる。老いたる母を父を、子が思いやって、愛をもって、慈愛をもって助ける。人間として当然のことである。勉強ができない友達を、想いやって助ける、いじめられている子を想いやって助けるこの想いやるという生命から発する行為、想いやりの気持ちを育てる、育て上げて社会に送り出すという人間教育を我が国においては、おろそかにしてきたのである。昨今、学びあいという名のもと、教えあうという教育が採用されてはいるが、教えあいと、思いやりの命を育てるのとは、次元が異なるのである。これはさておく。

長らく教育者ならびに教育関係者が忘れていた人間にとって、大事なこと、思いやるという人間の振る舞いとしての美しい行為を、自然に発芽させ、育て、人格価値を命に刻んでいくという教育活動を、目の見えない新井先生とそのパートナーである盲導犬の美しきペアシップによって、その振る舞いひとつひとつが、交響曲のようにして織り成していくのである。

人は、誰しも病気になることがある。さらには、思ってもみなかった病に陥ることもある。しかし病気をした人は、その分人のことを思いやれる。慈愛も深まる。病によって、生きる意味を考えたりと病イコール不幸とはいえないのである。大事なのは病に負けないことである。雨ニモマケズ、病に負けない心、この心がある限り、人生をプラスに転じていける。

「全盲先生と142の瞳」の物語

森谷良悦

 私たちは、視力を失ったら教師を辞めなければならないと考えがちだが、新井先生は 「全盲でも教師は続けられる、周りの人の協力と工夫次第で教壇に立ち続けることができるんだよ」と。「疑問に思ったら私の授業をいつでも見に来てください」と番組の冒頭で訴えかけている。そこに新井先生の強烈な信念が垣間見られる。

目で見る代わりに生徒の声を録音して誰なのかがわかるという。机の裏に点字を張ってそこでも識別できるという。そして、新井先生は生徒に積極的に声をかけている。 生徒が好きなんだなあということがひしひしと伝わってくる。

 新型コロナ感染症が視覚障害者に新たな難問をつきつけているといいます。 

    

新井先生は、声の強弱や息ずかいでわかるといいます。

マスクをすると、その微妙な変化がわからなくなってくるそうです。

このことは、視覚障害者にとって相当深刻なことだそうです。

コロナ前は、給食なども大勢の生徒と一緒に取っていたのが、感染防止のため一人でとるようになったといいます。

新井先生を親しみを込めて「ヨシノリ先生」と呼んでいるそうですが、生徒を理解するうえで貴重な時間が奪われたそうです。

新井先生のかつての同僚で一緒に仕事をしていた先生は、現在ボランティアとして協力していますが、「新井先生は生徒の前にいるだけで生きる力をつけることができる存在だ」と言っています。

見えなくてもできる、いや見えないからこそ教えられることがあるそうです。

ある生徒は、周りの先生がなんか言ってるけど、新井先生だけはそうじゃないと言ってくれた。その生徒が立ち直るのに強い影響を与えられたようです。

新井先生は、来年の3月に定年退職になる。一緒に142の瞳も卒業させるのに最大限努力したい応援したいという。そして後に続く障害を持つ先生の支援活動を行いたいという。

 障害を持ちながら教壇に立ち続ける。そのことの理解が、周りの人たちにも少しづつ浸透してきている。

 障害を持つ人も持たない人も共に生きる。そんな社会が近い将来訪れることを願わずにいられない。

        

書評『障害教師論』(中村雅也著)

   岩井隆

(1)  著者の中村雅也氏がその正体をつかみかねている大きな何かに徒手空拳で挑んでいる絵が私の脳裏に浮かび上がってきた、というのが2回目の読後感だった。

(2)  氏は10年ほど前の全国視覚障害教師の会(JVT)夏季研修会で「視覚障害の教師の研究をしている。」と近況報告で話していた。当時まだ現職でこの会に参加していた私は眼疾で大分見えづらくなっていた。「目が見えなくてもできる授業の方法論と教材準備のコツやサポートのありかたなどを体系化するのが中村さんの研究だろうか?」などとおもったことを覚えている。そのような研究の中でも「評価」について私は関心をもっていた。視覚に障害がある教師が「評価・評定」をどのようにしてだすのか、その方法論やテクニックをできれば知りたかったのである。というのは、「目が見えなくて、しっかりした評価・評定ができますか?」旨の言葉を私の勤務校の校長から頻繁に掛けられていたからだ。「見えなくとも、発言やプリントなど別のデータで評価しています」と反論しても、O校長は納得しない。遂には「目もだんだん悪くなるのだし、無理をすることはない」と親切ごかしに休職をそそのかしてくるのだった。まあO校長にしても5段階評定に加えて観点別評価が導入された時季であり、敏感になってもいたのだろう。ましてや中学校では生徒の「評価・評定」がダイレクトに受験先に内申として送られるのだから、卒業後の進路に直接関わってくる。「目が見えない教師が付ける評価で大丈夫か?」と保護者からクレームが入ることを何よりも恐れていたのだろう。そんな訳で、「評価・評定」はその頃の私の心配事であり専らの関心事だった。

(3)  その中村氏が10年を経て、「障害教師論」を上梓したと聞いた。その論を知りたくて、図書を入手した。驚いたことに、それは聞き書きであった。それも単なる聞き書きそのものではない。「視覚障害のある教師二十名にインタビュー調査を実施し、主にそのデータを元に分析考察を行った。」(同書まえがき)という。そして、そこから何ものかを読み取るのである。「インタビューの時期は2010年5月から2019年6月までの間で」(同書P16) 著者よりも若い教師9名、同年代の教師4名、著者よりも年齢の高い教師7名を対象にしていた。その中には、JVT第1世代とも呼ぶべき三宅先生などが含まれている。既に鬼籍に入られた方もいらしゃり、貴重な聞き書きだろう。  こうしたインタビューを行うだけでも手間がかかり、録音した記録を文字に起こすのである。さらに文字化(データ化)された資料の内容をインタビュー当事者に送り、相互に正誤や勘違いを正す作業が待っている。それも視覚障害者同士の確認作業である。1人のインタビューをまとめるのにどれほどの時間と労力を要するのだろうか?そのインタビューを足かけ10年間、20人に、のべ26回行っている。職人技か、執念か、気が遠くなる話である。私などはとてもできる業でない。  著者によるこれらの成果とその分析が本書の礎である。

(4)  一読してキーフレーズを2つ発見した。  1つは、「(障害教師の存在が)教師生徒関係及び健常者障害者関係への新たな可能性を提示している」という文言である。これは同書の「まえがき」にしるされ、この文言の前にその前提が説明されている。「教師生徒関係には一般に教師優位の非対称性がある。一方健常者障害者関係には一般に健常者優位の非対称性がある。ところが、障害者の教師と健常者の生徒との関係ではこの非対称性が交錯して従来の教師生徒関係とは異なった関係が構築される。(同書まえがき)これは、私などもどこかでそんなことがあるだろうな、と思っていることである。  もう1つのキーフレーズは「複業務多元支援」(同書P155)である。耳慣れないこの文言は著者の造語らしい。障害者の労働への支援の形を表している。私には充分な理解ができていないが、この文言を二分解して私なりに考えてみた。  「複業務への支援」=障害教師の行っている多種の業務に、支援に適する人的資源をそれぞれに配置することによって効果が得られるようになる。  「多元支援」=障害者個人を支援の対象にするのではなく、職場を支援の対象にすることによって、職場内の多数の者が支援を行う  この2つの意味が合わさって「複業務多元支援」となる。

(5)  本書は、まえがき・序章・第1章〜第9章・終章・あとがきから成っている。冒頭のまえがきで「障害教師論とは障害のある教師を巡る諸事情を調査し実態を解明するとともに障害のある教師を視座として既存の教育を問い直す学問領域である。」と定義している。本書全編をとおして、これを論じている形式だ。  本論の第1章〜第9章は大きく2つに読み分けられる。  前半の第1章〜第5章は、視覚障害教師から聞き取りした「語り」を分類整理して中途視覚障害教師の復職、視覚障害者の教育実習・採用試験、更には日々の教育実践などを分析して視覚障害教師の持つ特有の教育的効果を取らえ直している。  後半の第6章〜第9章では障害教師への人的支援データ(知見)を障害者労働の業務支援理論という大きな範疇に援用して今後の障害者支援のあり方を提起している。  前述した2つのキーフレーズを手掛かりに「障害教師論」を読み解いていこう。

(6)  1つ目のキーフレーズ「(障害教師の存在が)教師生徒関係及び健常者障害者関係への新たな可能性を提示している」は、主に前半(第1章〜第5章)で論が展開されている。とりわけ第5章が出色である。その第5章に記されている障害教師の「語り」に耳を傾けてみよう。  三宅さんは放課後などを利用して授業の準備から生徒たちに参加させ、生徒たちの目と手を借りながら授業を作っていく方法を取り入れたのである。(同書P106)  長井 生徒がサポートしてくれるというのは、こうしなさいというふうに押し付けてというかなそういう形でやるんじゃまず駄目ですよ。そうじゃなくて生徒の側から自然な形でサポート・手伝いをしてくれる、そういう生徒との関係がどうしても必要になるだろう(同書P107)  山口さんは視覚で生徒の外見をとらえられないために、生徒の内面を推し量るようになったという(同書P112)  有本さんは見えない事を取り繕ったりせず、机にぶつかり時には生徒にもぶつかりながら歩く姿を生徒に見せている。そうしていると生徒たちも見えないということがどんなことなのかを体験的に理解していくという(同書P113)  楠さんは障害という困難を抱えて生きてきたからこそ、困難を抱えている生徒たちの気持ちをよく理解できたし、つながりもできた(同書P114)  松田さんは障害教師が不自由ながら頑張りよる姿を見ておるというのは生徒らもどこかでプラスになるような気がするわな(同書P114)  著者はこうした障害教師の「語り」を次のようにまとめている。「これらの独特の生徒との関わりや教育的な存在意義は、個人の困難として否定的にとらえがちな障害に肯定的な意味を付与するものである。障害を教育という文脈の中で生徒との関係性においてとらえ返すことで、障害に肯定的な意味づけがなされるのである。」(同書P119)

(7)  後半(第6章〜第9章)は2つ目のキーフレーズ「複業務多元支援」についての論が展開され、視覚障害教師への支援のあり方の論考が記されている。が、この後半を理解するには骨が折れた。何といっても用語が難しい。ところが、ある言葉に注目すると、大筋が見えるようになってきた。それは「業務支援理論」(同書P171)である。改めてこの言葉を考えてみる。ここでいう「業務」とは障害者のしごとそれも障害者が障害によってどうしてもできないあるいは効率の悪い仕事を意味している。すると「業務支援理論」は障害者ができない仕事をどのように補い支えていくのかという考え方になる。この理論に従って後半を追ってみよう。  「2013年に障害者雇用促進法が改訂され、障害者に対する合理的配慮として職務の円滑な遂行に必要な施設の整備・援助を行う者の配置その他の必要な措置を講じなければならないことが新たに定められたのである。」(同書P121)  しかし、同じ視覚障害教師であっても目の見えなさ・学校種・担当教科・教職経験もそれぞれに異なり、できない仕事も効率の悪い仕事もそれぞれに違ってくる。必然的に必要な支援内容に差異があり、「その結果、支援の方途にも相違が出てくる。」(同書P129)  著者はこの多様性・個々人の違いを、やはり障害教師の「語り」で明らかにしている。  そこで「視覚障害教員が職務を遂行するためには人的支援は不可欠である。公的に支援人員が保障されれば、本人や同僚たちの物理的な負担は軽減される。」(同書P131)ということになる。「しかし、単純に視覚障害教員に支援人員をつければ問題が解決するというようなものではない。」(同書P131)なぜなら「視覚障害教員への人的支援は専門性と協働性という教員の職務の特徴を充分に考慮して設計されねばならない。」(同書P134)からである。  著者は教員の専門性を専門職としての知識や技能が求められること、協働性を同僚との連携協力が欠かせないことと位置付けている。  「視覚障害教員の困難は支援人員だけが対応して解消できるものではない。専門性と協働性を考慮し職場全体で支援することによって困難の解消がより効果的に実現できるのだ。」(同書P136)  随分と引用が長くなった。ここらで私なりの理解で口語訳をしてみよう。  【障害のために出来ない仕事がある障害者を助けるには、決まった一人の者がやるよりも、何人もの人(協働性)がそれぞれ得意なこと・出来ること(専門性)を行って助ける方が都合いい。】(どことなく教師が子どもに向ける眼に似てないか)  そして結論、キーフレーズの「複業務多元支援」がいよいよ登場する。教員の学習指導に対する人的支援は複業務一元支援から複業務多元支援へとシステムを変更することでより有効な支援体制に再構築できる蓋然性が高いと結論付けられた。(同書P157)

(8)  これまで「業務支援理論」を手掛かりにして後半を読んできたが、この理論上に登場する視覚障害教師たちはあまりにも受け身である。いつもいつも支援されるばかりである。  20人の聞き書きの「語り」の中には見られなかったが、手助けがなくても障害者ができることまでもやってしまうお節介な支援や障害者が受け身なのをいいことにして支援のはずの人員や時間を他の仕事に流用するようなことがあったのではないだろうか。  視覚障害教師は、ただ目で物を見ることができないだけである。その見えないためにできないことだけを支援してもらうことによって、自分が得意なこと・やりたいことに力を伸ばせるようになる。そんな支援を求める視覚障害教師はいるはずだ。  書かれている教師の専門性・協働性も、あくまで支援する側のそれだった。支援を受ける側の専門性・協働性を私自身の体験で読み替えてみた。まず協働性である。学校行事や学年の取り組みでは私はチームプレーに徹した。裏方の仕事にも工夫を凝らした。一方、専門性は個人プレーだ。主に授業と学級担任の仕事に力を傾け、自分の色を出していった。目が見えなくなると、さすがに学級担任は降りたが、授業ではTTを組んだ臨採の教師に目の代わりを依頼するだけでなく、2人でしかできないような授業にも取り組んだ。(あっ、これは協働性か)私としては、学級が違うと授業の相棒の教師も違ってくるというのは勘弁だった。私の専門性とは専門職としての知識や技能だけでなく、子どもへの視点・学びへの視点だった。子どもへの視点がどうにも相容れない教師とは挨拶程度で話をしない。もちろんその教師から視覚障害への支援など受けたくなかった。だから、あのO校長には面従腹背を貫いた。    いけない、筆がつい荒くなってしまった。

(9)  何度か本書を読み返していると、別の絵が脳裏に浮かんできた。著者が操るのだろうか、腑分けされた聞き書きの一片一片が渦巻くようにして再結集し、障害教師にからまっている不条理を撃とうとしている。  「あとがき」に記された「語りの中に立ち現われた視覚障害教師たちの教育実践はそれを跳ね返す力強さに満ちていた。(中略)教師はこのうえなく魅力的な職業だ。その魅力に取りつかれた人達が障害の有無に関わらず思う存分教育に打ち込める社会になってほしい。筆者からあの幸せな教師生活を奪ったものの正体を突止めるためにも地道に研究を続けていこうと思う。」(同書P210)を読んで、著者が10年に渡り気の遠くなるような研究を続けてきた奥底を見た思いがした。さらに著者は研究の幅を広げ(あるいは絞り)地道な歩みを続けるだろう、私はこのような書評を書くことでしか応えられないが、著者の営みを心から応援したい。                          (2021・5・15)

「障害教師論 インクルーシブ教育と教師支援の新たな射程」中村雅也著 学文社3600円+税