ノーマライゼーション・教育ネットワーク 会員通信2021年春号
【代表】新井淑則 【事務局】岩井隆
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コロナ禍、国リハで出会った人たち
新井 淑則
昨年10月から、国リハの眼科の清水先生より紹介していただき、4人の方々と出会うことができました。
言うまでもありませんが、つくづくと様々な人生があるのだなと感じます。 私がそれぞれの方々を紹介するのは難しいので、それぞれの方々に原稿を寄せていただきました。 主に目の状態、今までの経緯、今後の希望等の点で自由に書いていただきました。
Ⅰ 昨年、国リハでの生活訓練を終了し、復職に向かっている方
□ AHさん
私は、高校で数学を教えております、A,Hです。
突然ですが、スピッツというバンドの歌の歌詞にこういうのがあります。
「重い扉をこじ開けたら、薄暗い道が続いていて
めげずに歩いたその先に 知らなかった世界」
私は、眼の病気の為に約2年間、休職しておりましたが、この2年間を集約しますと、上記の歌詞で表現できます。
2018年の年末に、左目に違和感を感じ、地元の眼科で診察を受けたところ、緑内障と診断されました。 両眼ともに進行が進んでおりました。 すぐに治療を始めましたが、下と真ん中の視野が欠けており、視力もその時期に急激に低下してしまいました。
文字を拡大しないと読めない
状況でしたので、毎回教科書を拡大コピーしてなんとか授業し、その時期は1年生の担任をもっており、パソコン画面に顔を近づけながら、必死で担任業務を無理して行っていました。 その行為にも限界を感じ、次の年の4月に休職し治療に専念しましたが、手術とかの方法もなく、眼科医の先生から自分の病気を受け入れ、今後の事を考えていくように言われました。 ちなみにその時の視力は矯正で0.03ぐらいです。
その後、同じく視覚障害をもつ先生からアドバイスを頂き、復職への希望をもち、その年の秋から埼玉県の国立障害者リハビリテーションセンターで5か月間訓練を受けました。 そして、現在も休職中ですが、4月から現場復帰できるように努力しているところです。
休職してから病気を受け入れるまでの3ヶ月間は大変辛い時期でした。 進行がどこまで進むのかという不安や今後の生活への不安などマイナスの事ばかり考えていました。 そこから救われたのも国リハでの生活でした。 専門的な知識をもつ職員達からの様々な指導により新しい発見の連続で、自分の力にできるように訓練していたのをつい昨日のように思い出します。 また一緒に訓練に励む方たちの明るく前向きに取り組む姿にも励まされました。 模擬授業を2度程行うことができたのも良い思い出です。
今後の事ですが、令和3年の2月初旬にこの原稿を書いております。 幸いなことに病気の進行は止まっております。 復職の方は、管理職から職場復帰できるような十分な環境をつくってもらえるのかの返答はまだ頂いておりません。 しかし、休職してから、なお一層、「努力すること」と「人と人とのコミュニケーション」の大切さを実感することができました。 この休職中の2年間の経験をいかし、情報機器を活用し今の視力や視野を維持しながら働くことを願っております。 そして、同じく障害をもちながらも学校現場で働いている方々とつながりをもてればとも思っております。
Ⅱ 現在、国リハで理療を学んでいる方
□ S.Kさん
「まるで人生ゲーム 『今度は、これですか? はい、はい(笑い)』」
2016年の秋口、目の前のものが全て霞んで見え、これが白内障なのかと眼科を受診したところ、「白内障も併発しています。ただ、眼底がかなり汚れていますので、来週再検査をします。 」と医師から告げられました。 「・・・汚れている?」という表現に疑問を抱きながら、後日再検査をしたところ「『網膜色素変性症』という進行性の難病で、現在のところ治療法はなく、最悪の場合、視力を失うこともあります。 現在視野の欠損は90%以上です。 」と医師から説明を受けました。 初めて聞く、網膜色素変性症という病名とその説明をよく理解できないまま、それでもゆっくりではあるが、確実に進行するその症状に、不思議と喪失感というよりも合点がいくところが多かったことを覚えています。 それまで長年よく肘をぶつけたり足元を誤ったりすることが多く、そのたびに周囲から「そそっかしいから」という事で済まされてきた多くの事が、「見えてなかったんだ・・・」ということで得心できたからです。
視力を失うことも想定しながらの今後を思案する日々の中、知人から、これまでの経験と聴力を生かして、相談業務が向いているかもとアドバイスをいただき、そのための様々な知識を身に着けたいと思い、50代も後半に差し掛かった2019年、社会福祉士の資格を取得しました。 またその学びの過程で、「心身一如」という言葉に出会い、フィジカル面からも人にアプローチできる可能性を感じ、現在、国立障害者リハビリテーションセンターの理療教育課程で「あんま・鍼・灸」の資格取得をめざし、学ばせていただいております。
知人から言われた「これまでの経験」の中で、最も「生きる」というものを考えさせられたのは、長男を亡くした時でした。
36年前、周囲から祝福されながら生を受けたはずなのに、半年が経っても一年が経っても首が座らず、寝返りもうてず、這こともできず、3年目に「てんかん性脳症の『ウエスト症候群』」と診断されました。 医師にその原因を問うと「特定の原因は無く、医者の立場から言えることは、確率の問題です。 20万人に一人の確率がたまたまこの子になってしまった。 それ以上表現できない。 」との説明を受けました。
何かを感じ、笑う度に脳に電流が走り、脳が退行していき、やがて笑うこともできなくなった長男に、周囲からは「あきらめろ」といわれ、ただ懸命に生を全うしているだけなのに、「あきらめる」の意味が理解できず、一回の食事に2時間以上かけながら、また夜は誤嚥を避けるため、妻と2時間おきに痰を吸引しながら看病を続けましたが、10歳を迎えたとき、天命を全うしました。
生まれて、一言も発することも出来ず、一歩も歩くことが出来ず、それで天命を全うした彼の人生を考えたときに、やはり、ふと「生きる」ことの意味を問うことがあります。 その時、いつも同じことが繰り返されます。
「意味があるから生きているのだろうか。 」
「彼の10年間は「生きる」ということで様々な人々に、私の凡庸な人生よりはるかに多くの影響を与えた密度の濃い10年だったのではないか。 」
生まれた順に、亡くなっていくという、至極当然と思っていたことが、子が親より先に逝くということに直面した時、静かに、あくまで静かに、それまでの既成の価値観が溶けていくのを感じました。
それからは、「彼に恥じぬ生き方をしよう。 」それだけを心掛けました。 ただそれだけを心掛けていたつもりなのですが、まるで誰かが、私を駒に人生ゲームを楽しんでいるように、様々なことが起こりました。 決断を必要とされる場面に直面すると、必ずと言っていいほど、手を抜いた時にはしっぺ返しを食らい、必死にあがいた時は、最後の最後には手を差し伸べてくれました。
45歳まで福島の奥会津で、小売業を営んでいたのですが、時代を読み誤り、店舗、住宅などすべてを失いました。 そしてそんな姿に愛想をつかし、妻も去っていきました。 弁護士の親族に事後をゆだね、彼の「お前は逃げろ」の言葉に、「夜逃げ」なるものを経験しました。
自分の知識のなさを反省し、社労士の知識を身に着けたいと思い、学んでいると、その経験を評価してくれる方が現れ、新たに宿泊・飲食業の職を紹介していただきました。
新しい職場にも慣れ、業績も軌道に乗り始めたときに、今度は3.11東日本大震災と、さらに追い打ちをかける福島第一原子力発電所の大事故を経験することになりました。 あの緊迫した状況の中で、多くの方々が着の身着のままで放射線量の低い会津に避難してこられました。 その姿にすべてを捨てて逃げてきた自分の姿を、勝手に重ねあわせた私は、お店のスタッフの皆様のお力を借りながら宿泊・飲食の施設として避難してきた方々に精一杯の対応をさせていただきました。
それから数年、それも落ち着き、一身上の法的な諸問題もすべて解決し、ようやく重荷から解放され安堵したその翌月、目の霞みから眼科を受診し、網膜色素変性症の診断が下されました。
「今度は、これですか? はい、はい(笑い)」
還暦を超え、若い頃の苦労や汚点に、視覚障害という今までとは違う経験をかさねて、将来これらをキャリアとして笑って話せるようになることを祈りつつ、いつしか私を駒として人生ゲームを楽しんでいる「誰か」が、生きている間遊んでやれなかった長男が親父と遊びたがっているように思え、もう少しの間彼とゲームを楽しみながら、これらの経験を社会のお役に立つ形で還元できるようになりたい。 その思いで、これからも学びを深めていこうと考えています。
Ⅲ 昨年末から国リハで生活訓練を始めた方
□ R.Oさん
目の状態 視覚障害1級
だんだん悪くなっています。今は右下がわずかにぼんやりと見えるだけです。
今までのこと
12年前に原発性血管炎(疑い)と地元の大学病院で診断を受けました。 ステロイドによる治療で、しびれや痛みなどの症状が良くなり、しばらくは快適に過ごしていました。 多分、薬の副作用のため、いろんな病気やケガをしました。 そのたびに、視力が衰えてきたように思います。
目については、最初は飛蚊症、ブドウ膜炎、白内障、緑内障などを次々に発症し、目の血管が詰まる発作を起こして失明しかけたこともあります。 それでも、仕事は何とかやっていました。
3年前に今の学校に異動しました。 学級担任で学級事務や児童指導をすることが難しくなってきたので、少人数の算数を教える職員枠がある、また家から近く、バスで通勤可能な学校です。 そこでも最初は、明るい、日が長いうちは自動車で通っていました。 おととし、傷病休暇になってしまった先生の学級に仮担任となって指導に入った後、後に来る人が見つからないと言うことで、担任になりました。
1月からです。 調子を壊して3月に敗血症で1か月ほど入院し4月から復帰したものの、5月に大腿骨を骨折し、入院中に2回目の敗血症にかかりました。 原因は尿管に詰まった石のせいで全身の血液にばい菌が回ってしまったようです。
その後、骨折のリハビリと、敗血症の跡関連で入院したりして、令和の初めの年はいろいろなことがありました。 落ち着いた8月から仕事にも復帰しましたが、思うようではなく、通勤もタクシーや両親の力を借りて何とかこなしているような状態でした。
3月にコロナで子どもたちが学校に来ないことになって、事務の仕事が難しくなっていた私は休みを取ることにしました。 そこから今まで6か月の傷病休暇の後、3年の休職の途中です。
国リハに行ってみてはどうかと、主治医の先生から2年くらい前から勧められていたのですが、自分ではそんなに悪くないとその時は思っていたので、一日伸ばしになってしまいました。 お願いを国リハにしたときには、コロナですぐには入れないとのことでしたので、しばらく何もできずに悶々とする日々でした。
8月に、教師の会の方に連絡だけでもしてみたら?とアドバイスを受けて、連絡したところちょうど8月から受け入れが再開したとのことでした。 なるべく早くとお願いして、11月30日に入所することができました。
これからのこと
まだ、何ができるか正直分からない状態です。 とりあえず、無職にならないように、何かできることを見つけていければと思っています。 国リハではいろいろと体験させてもらっています。 私の進路のことも考えてくれ、また相談に乗ってくださっています。 今後何を目指すか見つけていければと思っています。
学校で子どもたちと過ごすことは、大好きでしたが、今の状態ではお互いに満足することはできません。 そんなことを考えると、学校は無理かなあと今は思っています。
ここでいろいろとやらせていただきながら、何かを見つけていければと思っています。
恥ずかしながら、今のところ私自身が、混乱していていろんな意味で整理されていないというのが現状です。 でも、新井先生をはじめ、たくさんの皆様にアドバイスや励ましの言葉をかけていただき、やっと暗闇から抜け出せそうです。
ありがとうございます。 これからも頑張ります。
Ⅳ 現在国リハで生活訓練をされていて4月から復職をされる方
□ Oさん(男性 県立高校 数学科)
目の状況視覚障害に至るまでの経過現在の視力
目の状況はほとんど見えない状態です。手のひらをちらつかせても認識できないこともあります。 現在、眼圧は安定しています。
視覚障害に至るまでの経過
緑内障が進行し始めたのは2017年の秋頃です。 眼圧が50近くなり眼科を受診し、即入院、手術になりました。 その後、2019年までに合計6回の手術をしました。 視力は手術を行うたびに、どんどん低下していきました。
目の手術の後、2019年の4月は虫垂炎になりました。 術後の経過が悪く半年間の入院生活をすることになりました。 持病の糖尿病は投薬治療を継続しています。 緑内障の症状がひどくなる前までは、眼圧が上昇の際にレーザー治療や点眼治療を行っていました。 緑内障以外では2015年に心筋梗塞、心不全、2017年に右足を骨折しました。
これまでの経緯
2019年に外科の病院を退院後、母親と弟に助けられながら自宅療養をしていました。 その後、国立障害者リハビリテーションセンターの存在を知り、2020年の7月から2021年の3月までお世話になりました。 歩行訓練では白い杖の使い方から点字ブロックのない場所での歩き方、公共交通機関の乗り方の訓練に至るまでしっかりと訓練することができました。 パソコンに関しても、音声の活用でマウスを使わずにキーボードで処理できるようになりました。 日常生活では、目の見えない状態での調理や掃除洗濯など、一人ではなかなか訓練できないことをさせていただきました。 これらの訓練をして、毎日行う事で少しずつやる気と自信を取り戻しました。
多くの方々のご尽力により2021年4月から職場へ復職予定です。
今後の希望など
感染症拡大防止のため、自発的に施設内の利用者の方々と訓練時以外ではほとんど会話をしていませんでした。 お互いに困っていることなど情報交換ができればよかったのですが残念です。 自分と同じように復職に向けて迷われている方がいらしたら、環境が
落ち着き次第可能な限り私もできることを見つけて応援出来たらよいと考えています。
コロナ下の状況 シリーズ3
今年度後半の状況
江口大輔
以前の原稿では、今年度前半の学校の状況について記述した。その後鎌倉市の中学校ではどうなったのかを記録しておきたい。 様々なことがらが大小あるものの変化し、やり方を少し変えなければならなかったことが多かった。
夏休みが8月1日、2学期の開始が8月24日と、例年より二十日ほど休暇が少なかった。 3年生は17日から授業が午前中だけあるというスタートだった。 2学期の行事は、本校の場合合唱コンクール、体育祭、文化祭などがある。 コンクール、文化祭は三密の関係や準備ができなかったために中止。 体育祭も規模を縮小し、保護者も3年生の家庭のみ一人の参観という、かなり絞っての開催だった。
しかし、これも仕方ないことである。 まあ行事の開催の方法は縮小や参観人数の制限という対処方法ができる。 学校の授業で毎年行ってきた内容については、実施方法を根本的に変更しなければならない。 たとえば、毎年ある講師の方に来校していただき、講演会をお願いしてきた総合的な学習の時間は、外部の方の来校ができなくなったため、実施方法を再検討しなければならなかった。 そこで行った方法がオンラインによる講演会である。 これは講師の方と学校をインターネットを介してタブレット端末でつなぎ、講演会を実施するというものである。 講師の顔や映像も直接見ることはできない。 テレビの大画面に映しても、直接見聞きする状況とはまったく違う。 それでもそうせざるを得ない。 また校外へ出かける学習も中止。 時間的に準備する余裕がなかったことに加え、もし生徒が出かけて感染する危険を考慮してのことである。 これはどの学年においても共通することである。 私も今年度は1年生の総合的な学習の担当だったが、時間をどう計画を立てていけばいいか、とても迷った。 幸い二人の先生がサポートしてくれたりアイディアをくれたので協議しながら乗り切ることができた。
成績においても通知表が配布されたのは2学期待つが初めて。 1学期が6月から始まったことを思えば、それも仕方ない。 また2学期も12月25日までという、普段より長期に及んでしまった。 同時に冬に近づき感染者が増え始めた中で、これからどうなるかという見通しが立たない。 それは今後の学校生活もそうだが、私にとってはICTが急速に進み、一人取り残されてしまうのではないかという心配である。 現在授業のやり方がタブレット端末でできるように体制が組まれてきている。 端末で調べたり、こちらのプリントを一斉に生徒の端末に転送したり、生徒がノートをタブレットでとれるようになり、それを教師側に転送させるなど、すさまじいスピードでICT化が進んでいる。 これは文科省のギガスクール構想というものである。 タブレット端末はただでさえ視覚障害者にはハードルが高いのに、それが今後確実に進行していくことになる。 もちろん、スマホは視覚障害者でも使えるようになった。 しかしそれは読み上げ機能がアプリに対応してきているからである。 調べ学習やノートの転送機能は、実は読み上げ機能では対応しきれていないばかりか、視覚障害者の立場で一緒に研修をサポートしてくれる人がいないのである。 昨年12月、この研修を一緒に受けてくださった教育センターの人も、視覚障害者のための機能がないことに、戸惑っておられたのが実情だ。 コロナは確実に学校現場を変えた。 文科省も教育委員会も、これまで消極的だったタブレット端末の導入、インターネット環境の改善という対策を矢継ぎ早に実施している。 コロナがなければ、そうした対策はもっと後だったかもしれない。 しかし、確実にそれは変わった。 視覚障害者が授業のやり方を確立し、様々な物的・人的サポートをお願いし、それらが着実に成果を上げてきたと思ったら、急速に進むICTやギガスクール構想が新たなハードルになりつつある。
文科省も教育委員会も多数派を向いて動いているのだろうか。 私には相談できる人が皆無だ。 部活も、ICTも、誰に相談すればいいのだろうか。 多少、晴眼者に合わせるやり方に疲れてきているのも実態である。
コロナ禍の学校現場で、視覚障害者はどう生きていけるだろうか。
30年前の困難をふりかえって
宮城道雄
[1]視力低下で障碍者に
38歳で岩槻高校に転勤して4年目が終わるころ、視力の低下が急激に起こりました。
生徒の答案を自分一人では、鉛筆書きの文字が見えないため、採点は困難な状況になり、事務作業が不可能になっていました。
そんな中で私が教師を継続できるかどうかと苦悩していた時に求職もせず、リハビリセンターに入所もせずに勤務が継続できたことは奇跡的な出来事でした。
1991年の夏に全国視覚障害教師の会の東京大会に参加することができ、また東京において障教連の結成に参加することができたことは幸運なことでした。 そこで全国の障害を持つ教師と出会い、更に視覚障害を持つ支援者とともに活動することになりました。 そんな中で私は障害を受け入れられるようになり、自分自身も教師を継続して行けるという方法を学びました。 創意工夫と努力によって教師継続可能と考えられるように成ったのです。
私は教師の研究活動として科教協の活動に参加し、全国大会や県内の研修会にも参加していました。 そこで物理授業の実践報告をしたり、他の人の実践報告を見て研修を深めていました。 毎年の全国大会でも、その地域の地層や岩石の最終や、特徴的な地形などを現地の専門の先生に開設してもらえる学習を通して楽しく研修ができていたことなどで教師を続けたいというのが強い気持ちでした。 視覚障害になってもこの気持ちは強かったのです。
このことは以前にまとめた通りです。 さて、ここではそのまとめでは不十分であり、職場の同僚が様々な点で支援協力をしてくれ、岩月高校で勤務が可能であったかを書き加えたいと考えます。
[2]障害の公表
障害を持つ教師の支援する活動が新聞で報道され、その記事が職場の管理職などに目にとまりました。また、私が自分の視力の状態を管理職につぶさに話して、視覚障害を持ちながらも教師を継続したいという意志と、方法論や要望事項などを管理職に話しました。 それに対し、管理職には前向きの対応をしてもらえました。
担任が終了した次年度は、私は渉外部主任としてPTA関係者との打ち合わせや様々な仕事、そして進路指導部の仕事等もしていました。 しかし、視力低下のため、このままでは勤務継続は無理な状態でした。 教科会である理科会や文章の会議、そして組合の分会会議などで私の視覚障害の現状やそれに対する対応策支援の方法などが話し合われ、いろいろな具体策が打ち出されました。
組合として分会会議で話し合い、(1)音声ワープロ(パソコン一式とスクリーンりーダーを含む)の県費での導入を行うこと、(2)視覚障害をカバーするための持ち時間を軽減し、講師を配置すること、(3)教材や資料の読み上げのための朗読ボランティアの校内導入を行うこと、の3項目を要望としてまとめました。 そして組合を通して管理職、並びに県教育委員会に提出しました。 私は、教育ネットとして、組合本部の支援の下、また、職場の同僚も参加して教育、委員会との交渉を直接行いました。
それらの取り組みの結果、要望事項は3年目に実現したことは依然述べたように大きなことでした。
[3]色々な支援
40歳代前半のころは持ち時間が4時間軽減されました。拡大写本の教科書を作成して、新聞の見出しほどの大きな文字の教科書を1科目で10冊ほどの分冊としてできたものや、拡大された図や表を見て教材研究をする時期もありました。 また週に1度朗読ボランティアの方が校内に導入され、問題集や教材資料などを朗読してもらいました。
視覚障害の見えないことをカバーする重要な課題である定期試験の採点では、前任校の同僚がボランティアで採点に協力してくれることとなりました。 その都度、同僚の勤務校まで答案を持って行き、私の立会いの下同僚に採点してもらい、そこで評価を出すことにしました。 その採点時間を保証するために、私の担当する科目の物理は試験期間4日間の最初の方に優先的に割り当ててもらうことができ、職場の同僚には大変な配慮負担をして頂きました。 また。 定期考査の問題作成時に、問題の図形やグラフを問題用紙に貼り付けてもらった
り、問題文のミスの最終チェックをしてもらうこと、問題の印刷などを特別に実習助手の方に補助してもらいました。 また、出席簿のチェックなどもやってもらいました。 このような補助活動は個人的な好位協力によるボランティア活動でしたから、私は年に2度ほどこの二人の方には商品券を送付することでお礼をこころがけて感謝を表しました。
学校全体の職場環境作りとして理解ある同僚の積極的な働きで、学校行事を企画運営する人権委員会の毎年の活動が前向きに実施され意義あるものとなっていました。 ある年は2学期末の全校人権講演会で下肢障害を持つ車いすの講師を招いてバリアフリーの講演を催したことがあります。 段差を解消しスロープ等を設置して障害を意識しないですむ社会を構築することの大切さが語られました。 身体の欠損を問題視するのでなく、社会的な壁を除去することが重要だということでした。 また別の年度には人権委員会の染谷先生の推薦などもあり、日本点字図書館の田中館長を招いて、職員全体に講演会を開催しました。 視覚障害の理解や、支援の在り方などに関する意義ある講演が実施されました。 このような生徒並びに教職員の研修会は視力障害者である私にとって職場の理解と日常生活における様々な場での協力的な関係ができてきて安心感につながるものでした。
更に、私は徐々に視力低下が進行していましたが、教科書も点字教科書をボランティアによって点字化したものを使用するようになりました。
その時点で,埼玉大学の学生ボランティアをお願いし、毎週土曜日の午前中の半日を物理室で、板書事項の模造紙かきをやってもらいました。 マジックでカラフルに、まとめの事項やグラフ図形などを書いてもらいました。 これを黒板に貼り付けると、生徒はそのカラフルな個性的な文字に関心を集中していました。 また、学生たちと物理の模擬実験をあらかじめ実施して、データーを収集したりして、有効な準備ができたことは貴重なことでした。
この段階では視力障害は2級になっていましたので、管理職に点字プリンターの導入を要望していました。 管理職は県教委に働きかけてくれ、100万円程の県費で点字プリンターを導入していただきました。
2007年度になると,わたくしはほぼ全盲状態になっていましたので、持ち時間の適正化と視覚障害を補助するための講師要望を行いました。 講師の配置が私の視覚障害の補助のために8時間が実現しました。 その結果,私の持ち時間が10時間ほどになり、理科の持ち時間にも2時間の配置がなされました。 同僚の時間も少し軽減されたので、定期考査の問題つくりや採点の補助作業を、理科の同僚に担当してもらえる形態が構築されました。 私の担当するのは3科目なので、3人の理科の同僚に協力してもらい採点と評価など
事務作業をこなすことが可能になりました。
[4]物理実験は楽しくできる
生徒実験も演示実験も実習助手の先生や生徒達の協力の下、私の視覚障害をカバーして行うことができました。生徒実験などのグループ実験では、実験器具の使い方やデータの正しい取り方などのチェックを実習助手教員にやってもらいました。 以下3つの事例です。
実験1 100グラムの鉄球を目の高さぐらいから静かに落下(自由落下)させたとき、速度の増え方(加速度)を求める。
①生徒の4人のグループごとに鉄球に1メートルほどの紙テープをセロテープで固定し、1秒間に50打点を打つ記録タイマーにテープを通した後で自由落下させる
② 一定時間(10打点事)にテープを切り、グラフ用紙に貼り付ける。
時間の経過とともに速度が増えるグラフができることを確認する。
③グラフの傾きを調べよう。
実験2 2つのビー玉程の同じ大きさの球を、
同時に落下(自由落下)させると同時刻に着地しますね。
では、片方の球Aは自由落下させ、もう一方の球Bは水平方向に投げる(水平投射)を同時刻に行うとき、どちらの球が先に着地しますか。
①まず、予想しましょう。 A球が先に着地する。 同時に着地する。 B球が先に着地する。 全員の生徒が自分の考えを書きなさい。 その理由も書くこと。 では、何人かに予想意見を発表してもらいます。
②自由落下と水平投射を同時に行う装置で教卓の上で実験する。 2つの球の着地する音を聞いて結果は判明する。
実験3 ソフトボールを真上に投げ上げる(鉛直投射)したとき、上昇時間と落下時間ではどちらが長いか。 または同時か。
①生徒を非常階段に集め、野球部の生徒に依頼し、ソフトボールを地上から真上に(2階かまたは3階ぐらいまで)投げ上げてもらう。
②2人の生徒にストップウオッチをわたし、上昇時間(投げた手からボールが離れた瞬間から最高点に達するまでの時間)と落下時間(最高点から落下したボールを受け取る瞬間までの時間)を測定する。
高さを変えて3通りほどやってみる。
③結果を一覧表にして見れば結論は明らかである。
[5]まとめ
以上様々なことを書いてきましたが、障害者差別解消法が制定され合理的配慮が強調される現在と異なり、障害者になったら退職を余儀なくされる時代に、私が岩槻高校で退職時まで,さらには再任用で勤務が可能であったことは大変感謝すべきことでした。
「障害教師論」 (中村雅也)
学文社 2020年刊)を読んで
飯島光治
はじめに この本は、中村さんが視力が低下して、42歳で教員をやめて、研究者として11年目の集大成です。膨大な先行論文を読み、20名の方にインタビュウしてまとめたものです。
この本の題名は、中村さんの造語で、今まで児童、生徒の研究はあるが、障害教師にについては、
無かったとのことです。
上記20名の方々には、敬意を持ちます。
私はインタビュウにより、はじめて実際の仕事(学習指導、担任等)を知りました。
本書は、全10章、225ページで、以下内容の一部となります。
1 私が学んだこと
(1)支援員が、一人つくと、その人に任せ同僚との協働性が無くなる面があること。
(2)生徒指導の頭髪検査で、見えないということで、外見にとらわれず生徒の内面を 見るようになる。
(3)定時制の生徒について、共に困難を経てきているので、生徒理解にプラスにな る。
(4)一般に教師対生徒、晴眼の教師対視覚障害の教師は、前者が優位とみられるが、 視覚障害の教師対生徒においては、この優位性が崩れ、双方向性、互恵性(ウイン ウイン)が出てくる。
(5)共生社会に向けて、教師集団も多様の方がよい。 社会は多様である。 障害教師の 存在そのものが多様になる。 インクルーシブ教育は障害教師にも。
(6)障害教師の採用に、割り当て感があるが、社会的障壁に原因があり、合理的配慮 を実施し、差別の禁止の流れになっている。 法定雇用率達成に向けてはあるが。
(7)採用試験の面接で、障害のゆえに職務はできるかの質問は、むしろ社会的障壁を 取り除く方向に。
2 本書の言葉について
学術書ということですが、中村さんの文章力で読むことができました。
墨字という言葉が、よく出てきますが、私は長年聞いたことが無く、教育ネットの会合で質問し、点字に対する言葉で、活字のことでした。 カタカナ語が出てきて、外来語辞典を引きました。 例としてラポール、トランスクリプト、アクセンブル、ジョブコーチ、ピアサポート、マトリックス、オルタナティブ、ストラテジー。
3 本書の意義と限界
以下本書より。限界は今後の課題として。
(1)障害教師研究という新たな領域を拓くもの。 教師支援の概念を、教師の力量向上 のための支援から、教師の職務遂行そのものに対する支援に拡大したこと。
(2)支援の実態を、分析整理し概念化したこと。 4つの型に分類した。 業務支援の提言が内容の核(この本の元になる論文で)と言っています。
(3)障害教師の労働、雇用の問題の解決に資する実践事例を豊富に示したこと。
限界として(1)調査対象の問題。 障害者は視覚障害のみではない。 (2)調査方法の問 題。 インタビユー法だけでは十分ではない。 統計調査もある。
(3)教員でない方(福祉、ボランティア、ガイドヘルパー)を支援者としたとき、そ れを保証する制度化の課題がある。
4 おわりに
ノーマライゼーション・教育ネットの4人は、2年間かけて、「時代の半歩前を往く」(教育ネット20年の軌跡)を、2017年に出しましたが、個人のこと、インタビユウを文字化してできるまで、、時間がかかりました。
中村さんは、あとがきで、多くの指導者、協力してくれた人のおかげとあります。
それを一人でしたことは、大変だったとその労を思います。 例えば20人の方の一覧表の作成、支援として教員ができるものと教員でなくてもできる仕事の一覧表の作成。
私の視野を広げてくれる本になりました。 中村さんが教育ネットの会合に参加してこの本を知り、教育ネットのおかげです。
尚本書について、中村さんより会員通信(2020年12月号)にあります。
中村さんは、まだ50代。 さらに研究を深められますように。
(2021年1月記)
しっかり伝わっていますよ ハルさん
映画「瞽女 GOZE」の映画評に代えて 岩井隆
小林ハルさん、あなたのことを「おばあちゃん」と呼ぶことをお許し下さい。おばあちゃんが生まれたのは明治33年で西暦の1900年丁度ですよね。 私が生まれたのが西暦1952年ですので、ハルさんは私の祖母の年代に当たる人なのです。 おばあちゃんは年号で言えば、明治の末から大正・昭和を生き抜き平成の半ばまで満105歳の人生を送りました。 その半生(誕生~二十代)を描いた映画「瞽女 GOZE」が、おばあちゃんの故郷の新潟を中心に全国で上映されていると聞き、先日見に行きました。
実は、私にはひとつ気がかりがありました。 この映画が瞽女さんのうわべをなすっただけの映画ではないかという心配でした。 約百年前の雪深い新潟の寒村に生まれた小林ハルの実話は可哀そうな女を安直に描き出すには、手頃な材料になります。 そんな映画には、哀れな女に対する「上から目線」の憐憫が見え隠れしているだけでしょう。 おばあちゃんがこのような映画を見たら、「こんなん、オラでない。 」とつぶやくでしょう。
しかし、私の心配は的外れでした。 この映画を作ったのは、瀧澤正治という映画監督です。 瀧澤監督は20年近く前におばあちゃんのことを知ったそうです。 その数年後にはおばあちゃんは亡くなってしまいました。 が、その時、瀧澤監督は小林ハルという1人の瞽女さんの生き方や思いを何らかの形で描こうと心に誓ったと聞いています。 監督はまず、おばあちゃんのことを書いた本を読んだのではないでしょうか。 昔の新聞の記事やテレビ・ラジオの放送からおばあちゃんの姿を探したでしょう。 もっとおばあちゃんのことを知りたくておばあちゃんやほかの瞽女さんが旅をした道を実際に歩いたかも知れません。 さらには、おばあちゃんが瞽女唄を教えた目の見える若いお弟子さん達の瞽女唄を聞いたことでしょう。 そしておばあちゃんを主人公にしたラジオドラマを2013年と2017年に2回作っています。 ようやく2020年に自分の生きねばならなかった時代を精一杯生きた1人の人間としての瞽女を描く映画が完成したのです。 完成までに十数年の時間をかけたのは瞽女さんのうわべをなすっただけの安直な「上から目線」の映画をどうすれば免れるかという瀧澤監督の迷いと試行錯誤の積み重ねの時間だったと、私には思えるのです。
瀧澤監督の丁寧な映画造りを最も感じるのが瞽女唄です。 安直な映画を避けた瀧澤監督は瞽女唄にも、いえ瞽女唄にこそ真実性を求めました。 最後の瞽女と言われたハルばあちゃんが亡くなって既に十数年、こればかりは本物という訳にはいきません。 でも、おばあちゃんは手掛かりを遺しておいてくれました。 おばあちゃんが70歳を越えた晩年に、瞽女唄の教えを乞うてきた晴眼の人達に稽古をつけましたね。 そのうちの何人かが瞽女唄を自分のライフワークとしています。 その一人萱森直子さんが協力してくれました。 瀧澤監督も萱森さんも妥協をしませんでした。 これまでに瞽女唄などとは多分無縁だった女優たちに瞽女唄を求めました。 音曲にはいわば素人です。 演技以上に瞽女唄を賢明に習ったことでしょう。 映画で演じられた瞽女唄はとても初心者とは思えないものでした。 とりわけハルの子役の川北のんさんとハル役の吉本実憂さんはみごとでした。
映画「瞽女 GOZE」は、瞽女唄が流れる中、奈良岡朋子のナレーションで始まり、ラストシーンはハルばあちゃんが実際に歌った瞽女唄が流れ、おばあちゃんの写真が画面に映し出されます。 映画に織り込まれた十数曲の瞽女唄は、ある場面では親方に稽古をしてもらう唄声であり、客を楽しませる芸そのものであり、別の場面では瞽女さんが旅したり門付るBGMとして映画にリアリティーと厚み・深みを加えていました。 この映画に瞽女唄がなければ、平板な映画になっていたことでしょう。
映画は小林家の三女ハルの誕生で始まり、生後間もなくしてハルの目が見えないことが判明する画面へと変わっていきます。 目が見えない子の誕生は小林家には呪わしく忌まわしいことに他なりません。 ハルは二階の奥に隠されるようにして育てられます。 そして二歳の時には父が他界し、十歳で母を失います。 瞽女として旅芸人になることが運命づけられているようでした。
圧巻だったのが、針のみず(穴)通しの場面です。 ハルが瞽女として旅巡業をしていくには、目が見えなくとも身の回りの始末は自分でしなくてはなりません。 裁縫もその一つです。 5歳になったハルに母親とめは裁縫を教えます。 細い針のみず(穴)に糸を通すことは晴眼の者でも手間のかかることなのに、目の見えない5歳のハルにそれを強いるのです。 何度試してみても糸は通りません。 泣きじゃくり「できない」とハルが訴えても、母とめは容赦しない。 叱責を続け、できるまで食事も取らせません。 見かねて食事をハルに与えようとした孫婆さんも追い返されてしまいます。 今の時代なら、児童虐待ですよ。 お母さんは警察に逮捕でしょう。 百年前の明治の末のことです。 目の見えない女は縫い物のひとつもできなければ生きていけない現実がありました。 何としても生きていく術と技をお母さんは鬼になってもハルばあちゃんにつかませたかったんでしょうね。 そして、とうとうハルばあちゃんは指先だけでなく唇や歯も使って針のみず通しができるようになったんですね。
ハルばあちゃんは8歳の時から、最初のフジ親方、次に二人目のサワ親方について旅修行です。 1年の大半を旅の空の下で暮らし、雨の日も風の日もあったでしょう。 巡業は新潟県内はもとより峠を越えて福島県や山形県にも及びます。 激流に架かる丸太橋を大きな荷物を背負ったまま渡ったり、手引きからリンチにも似た仕打ちを受けるなど辛い旅でした。 春から秋にかけての旅巡業を終えると、真冬には極寒の信濃川に向かってひと月の間行う寒声稽古が待っています。 映画に描かれているこれらの厳しい修行や出来事は実際にハルばあちゃんが体験したことなんですね。
映画のクライマックスでは、二十歳を越え親方となったハルが弟子になったハナヨに針のみず(穴)通しを教える場面が出てきます。 十歳を少し超えたハナヨは上手くできないと泣き出します。 そこにかつての自分自身を見たハルは改めて母親の思いと愛情を受け止めます。 無情で鬼のようだと思っていたお母さんは、誰よりもハルの行く末を心に懸けていて、亡くなってもハルの生き方を今も支えていたのです。 ハナヨにみず通しを教えることによって、お母さんの存在がこの場面で浮き上がってきます。
ところで、ハルばあちゃん、弟子のハナヨに針のみず通しを教えたことはあるのですか?桐生清次・川野楠己・下重暁子の本などを読んでも、ハナヨに針のみず通しを教えたことは書かれていないのです。 これは私の想像なのですが、瀧澤監督が創作した場面なのではないでしょうか。 ハナヨに針のみず通しを教えたことがたとえ事実ではなくとも、ハルの心の底にある母への思いを表現するものだったんだと私は受け止めています。
ハルばあちゃんは、女性であり、目に障害があり、幼くして父母を失うなど幾つもの困難を抱えて生きづらい世を精一杯生きてきました。 そのおばあちゃんの1人の人間としての瞽女の姿と思いが、映画「瞽女 GOZE」によって百年後の私たちに時間や空間を越えてしっかりと伝わってきます。
映画は、吉本実憂が演じる最晩年のハルばあちゃんが車いすに座って登場する老人ホームの場面に転換します。 しみじみと「次の世は虫になっても明るい目がほしい。 」とつぶやきます。 そして映画は幕を閉じていきます。 私もしみじみ思うのです。 おばあちゃんの目が見えていたら、瞽女にはならず、もっと違った一生を送っていたのだろうと。
それにしても、おばあちゃんの人生は順風満帆ではなかったんですね。 その正反対で、やる事なす事が裏目に出てしまいました。 兄が継いだ生家や親族とも疎遠になり、弟子の不始末に振り回されたり、人にだまされて稼いだ金も巻き上げられる羽目になります。 社会も大きく変わり、巡業先の農山村でも瞽女の来訪を待ち望む人は減るばかりです。 瞽女宿と呼んでいた巡業先もなくなっていきます。 かつては教えを受けた弟子たちが師匠に替わって旅巡業を続けましたが、もう弟子になる者もいません。 瞽女唄そのものが生業になりにくい世の中に変わり、多くの仲間が瞽女を廃業していきました。
おばあちゃんは60歳を越えると、養女にしたきみを連れ、人伝を頼って、出湯温泉の片隅に居を移します。 もう長旅はせずに近郊を回り瞽女唄を歌い、浴客を相手に流しのあんまをして細々と糊口をしのぎます。 おばあちゃんは人並みのささやかな老後の安寧を望み、幼女きみに婿を迎えます。 が、何の因果でしょうか、全てが悪い方へと転がっていくのです。 その養女と婿からも粗末にされるようになり、おばあちゃんは73歳の時に出湯温泉を去っていきます。 何もかもうまくいかないこれまでの瞽女という人生そのものとその人生に深く絡みつく瞽女唄、それら全てを捨て去ることを決意したのでしょう。 そして、身寄り頼りのない一老人として老人ホームでひっそりと残された人生を全うするつもりだったのでしょう。
しかし、なぜかおばあちゃんは瞽女唄を捨てられませんでした。 老人ホームに入所すると間もなく、また瞽女唄を歌うようになります。 乞われれば遠く東京まで足を運びもしました。 子や孫のような若い晴眼者の女性が弟子入りを希望して来ると、弟子入り希望者よりも熱意を持って瞽女唄を教えるようになります。 自分の生きてきた全てとも言える瞽女唄を、何としても後の世に伝えたかったのではないでしょうか
おばあちゃん、安心して下さい。 晴眼の弟子の竹下さん・萱森さん・月岡さんはしっかりと瞽女唄を今に伝えていますよ。 さらに次世代のお弟子さんもいます。 聞き手もかつての農村の人々とは異なりますが、瞽女唄を楽しみにしている人も多いのです。 私もその一人です。
もし、おばあちゃんが瞽女唄をきっぱりと捨てて二度と口にしなかったら、瞽女唄は今に伝わることはなかったでしょう。 過去の記録物としての何枚かのレコードが残るのみです。 もう今にも切れてしまいそうな細い糸を、おばあちゃんは手繰り寄せつないでくれたのです。 ありがとう、おばあちゃん。
読売新聞記事掲載
新井先生、皆野町の小学校で公園
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