教育ネットの発足とその後の経過

会の発足

 教育ネットは1996年8月に発足した。障害者の完全参加と平等が叫ばれ、共に働き共に学ぶ共生社会の実現を求める動きが増大する中で、障害や難病の教員が教育現場で働き続けるための権利確立と労働環境の整備と支援のために当該者と多くの支援者の力を結集して会を設立した。
 1990年代は、バリアフリーやノーマライゼーションの言葉が広まり、国際障害者年から久しくなっていたが、教育現場の実態はそれとはほど遠いものだった。教師が病気で障害になってしまうと、医者が仕事は可能ですと判断しても、復職が拒否された。視覚障害者の場合,三療の専門学校に通うなど厳しい現実であった。また、下肢障害者はエレベーターが無い学校では勤務が拒否された。職場では障害を明らかにできず、それを隠し続けたり、病気が悪化して退職せざるを得ない人も多く存在していた。

発足前の流れ (この部分は省略します)

当時の課題

 当時の都教委との話し合いで取り組んでいた当該者は、品川区の小学校教諭で全盲、人工透析の二重障害を持つ大里暁子教諭の勤務条件確立と、脳出血のため下肢障害で自由に歩けなくなった井上充教諭問題、人工透析を持つ荘田美智子教諭問題、また難聴で授業から外されている私学に勤務するS教諭問題、視覚障害の丸山隆教諭問題があった。教育ネットは都教委と何回も交渉を持った。埼玉では、岩槻高校に勤務する宮城道雄教諭が40代に入り急速に視力低下が進行し、勤務継続困難に直面していた。教育ネットは宮城教諭の視力の状態を職場で明らかにし、理解と支援を広げ、職場の条件整備として3項目の要望事項をまとめた。職場や管理職、組合並びに本部の理解と支援を求め、運動を展開した。教育ネットの県教委交渉を持った組合本部の協力があり、担当者が必ず同席した。交渉の際に、県議会の文教委員の河村議員に協力依頼を行い、県教委への働きかけを依頼した。97年には3つの要望事項が実現した。それらの内容は毎日新聞や教育新聞に掲載され、当事者の拡大につながった。

当事者の輪が広がる

 宮城教諭の組合や職場での支援の拡大と、マスコミ等を通じた障害者が、働き続けることへの理解の広がりの中、埼高教組合本部を通じて、会に当該者が紹介されてきた。その第一が秩父養護学校で病気で失明した新井淑則教諭であり、その第二が川越の小学校に勤務する下肢障害の山本洋子教諭であった。更には、浦和や大宮で教育ネットの支援集会を開く中で、そのマスコミ報道を見て、会に問い合わせがいくつかあった。集会に早速駆けつけてくれた県会議員の河村議員は文教委員であり、その後様々な支援と協力を得た。また、下肢障害の東京の小学校に勤務する石塚忠雄教諭が入会してきた。さらには、車椅子で中学校に勤務する櫻井守教諭が会に連絡を取るようになり会に参加してきた。内部障害の川田誠作教諭も病休後入会した。当該者と支援者を含め会員が最高150名を超えるに至った。以上の経過が示す通り、教育ネットの活発な活動とマスコミ等による報道で、各地に点在する困難を抱えた障害を持つ当事者が入会してきた。都議会で障害保障の制度化を求める請願署名が趣旨採択されたこと、また文部省の障害者雇用を促進するため条件整備を促す通達が出されたことにより、障害を持つ教員の勤務継続と条件整備の運動の正当性が当該者達に確認された。各地に点在する当該者が教育ネットに入会し、点を線から面に拡大する運動の重要性がこの間の経過によって明白に示されたと言える。