ノーマライゼーション・教育ネットワーク  会員通信 2023年冬号  ~2023年12月25日発行   【事務局】宮城道雄 〔ホームページ〕  URL:http://www.japan-normalizatio.com/ 連絡先〈 郵便 〉〒344-0041 埼玉県春日部市増富763-1 飯島気付             〈 電話 〉090―5994―5131(宮城)             〈メール〉rsj78162@nifty.com(宮城)  教育ネットの会員の皆様、読者の皆様、今回ここに会員通信冬号の発行になりました。本年も新型コロナはおさまりつつあるようですが、年末になり、N先生問題で練馬区教育委員会交渉が3回目になりました。また、新井淑則さんの追悼集会が開かれ、同時にそれが「リルの家」スタートとなりました。 去る11月12日に秩父、皆野で行われた「ヨシノリ先生を偲ぶ会」が開催されました。地域コミにゅティ作りで、「リルの家」発足の第一回の集まりになります。教育ネットからも参加しました。以下の文章はそれに参加した3名の方の寄稿文です。 新井先生を忍ぶ会及びリルの家オープンの集まりに参加して 神奈川県 齋藤健二  11月12日に上記の会に参加した。新井先生には大変お世話になり、お礼を言いたかったので遠い場所ではあるが、出席させていただいた。  平塚から熊谷までは上野東京ラインで直接行くことができるので、グリーン車でサンドイッチとコーヒーを味わいながら向かった。新井先生が勤務していた中学校に数回行かせていただいているので、とても懐かしい感じがした。視覚障害を持つ教員がどのように教えているのか実際にゆっくりと見学できるチャンスはそれほどないので、ノーマライゼーションネットの皆様と見学することができて本当によかったと思う。新井先生が蜘蛛の糸を朗読している様子や、他の物語を生徒と一緒に音読している様子、研究協議で授業の構成や指導法について話し合ったことなどを思い出しながらあっという間に熊谷に着いた。熊谷で宮城さんと飯島さんと合流し、一緒に皆野まで向かった。乗ってみたかったSLを見送って、次の電車で行った。  里カフェで皆さんと合流して、ヘルシーなお昼ご飯をいただいた後、リルの家に向かった。新井先生の家にある小屋を改築して、リルの家にしたと聞いた。土地が広く、小屋があって、羨ましいなあと思った。リルの家については札幌の高柳さんから事前に少し聞いていた。人が集まれる場所、学習をしたり、お話会をしたり、様々なことをする場所にしたいという新井先生の思いはすばらしいと思った。私も人が集まって模型を触ったり英会話教室をしたり、いろいろ作品を作るワークショップをしたりしたいと考えているので、新井先生ともっと話をしておけばよかったと後悔した。  会は新井先生の子供のころからの写真を見て振り返ることから始まり、それぞれの参加者が新井先生の思い出を話していった。病院で録音した生前の新井先生の声が残っており、それを皆で聞いた。リルの家についてのコンセプトや雨にも負けずの朗読をしっかりとした声で残されていた。それを聞いていると、涙が出てきた。なくなってしまったというのは今でも信じられないが、現実は現実である。私は、この会報で書いたように、新井先生とテレビに映ったこと、中学校で授業をさせていただいたことを話し、自分も人が集まれる場所を作りたいと思っていることなどを話した。参加者からは、新井先生と一緒に働いていたころのことや、中学校に復帰するときに長瀞町の町長さんとやりとりをしたこと、小さいころの新井先生のことなど、様々な思い出が語られた。  会終了後、お墓参りをした。「こんなにたくさんの人が集まってくれて幸せだろうな」と言いながらお線香をあげた。  リルの家のコンセプトは現代の我々が必要としていることであり、すばらしいと思う。遠いので、なかなか活動に参加はできないが、是非応援したい。リルの家でも、学校でも新井先生の功績を伝えていくことが私たちの役目であるし、新井先生までとはいかないが、よい授業をして、子供たちを育てていくことが使命だと思う。新井先生、本当にお疲れ様でした。安らかにお眠りください。 新井淑則先生を偲ぶ会・「リルの家開所式」に参加して                    札幌市・高柳温彦  新井淑則先生とは、JVT(日本視覚障害教師の会)の仲間として研修会で3回ほどお会いして来ました。そのほかに数々のドラマやドキュメンタリー、報道における視覚障害教師としての実践を拝見してきました。退職してからは、地域に根差した皆さんが集える拠点₌「リルの家」を開く計画をお聞きして、その折には是非訪問したいと思っていました。。この度開所式が 、新井先生を偲ぶ会になってしまった事が、私自身も受け入れがたい思い出、「リルの家」開所式に参加した次第です。  新井先生は、視覚障害になられてから地域の特別支援学校や中学校の国語教師として、長年実践されてきましたが、その功績と退職後の地域に根差した「リルの家」構想は全国に知れ渡りその影響力は大きなものです。  ア 開所式の前にお墓参りをさせていただきましたが、その墓石に刻まれた年号江戸時代の寛政から新井先生の生家、二百数十年の歴史の重さとを感じ、「リルの家」構想の地域に根差したと「いうコンセプトの原点を感じました。  障がいがあっても無くとも、高齢者も若い人も、大人も子供も、どのような立場の人も集える場の誕生は素晴らしいことです。  今後は新井先生の思いを引き継いで、運営に当たられる皆様と参加される方々が、新井先生の「思い」を共有されて行かれることを願っています。  この会において皆様から貴重なお話をいただき、とても有意義な機会になりました。  この度の会合にあたり、きめ細かなご配慮をいただきましたことに感謝いたします。有難うございました。                    令和5年11月末日  「リルの家」の開所式に参加して  富山県立視覚総合支援学校 荒井英俊  「リルの家」の開所式、待ち望んでいた一人である。  私と淑則さんとの出会いは、平成19年2月、私が所沢でのリハビリ研修の際に、当時彼が勤務していた埼玉盲学校を見学させていただいたことから始まった。彼は初対面の私に対して、控えめながらもとても親切に接してくれた。自分のリハビリの経験や職場復帰までの経緯、そして盲学校の現場の様子を熱心に説明してくれた。見学が終わった後は、彼の勤務時間終了を待って、駅前の居酒屋で杯を交わした。そこでは、通常の学校で教鞭をとりたいことや盲導犬の話、もちろん、私の相談にもじっくり聞いて答えてくれた。彼とは、姓や年齢が同じなのだが、なぜか親しみを覚えた。 それからは、jvtや教育ネットの研修会で顔を合わせ、幾度と交流を重ねた。特に、お互い盲導犬ユーザーということもあって、よく同室させていただき、深夜まで話をした。彼は着実に自分の夢を実現していった。念願の中学校教師への復帰や著作本の執筆、琵琶の演奏会の開催等、テレビやマスコミに取り上げられたりするが、いつも偉ぶることなく、ごく自然に接してくれた。  定年が近づき、退職後の話になると、彼の口から、「リルの家」の構想がもちあがってきた。当時は、まだ具体的なプランは語らなかったが、あれほど通常の教育に熱心に取り組んでいた彼の進路については、意外感を覚えたものである。  それ以後は、コロナ禍もあり、会うことがなく、ある時、岩井さんから、彼が社会福祉士にチャレンジしていることを知った。直接、彼に電話して確認すると、社会福祉士にチャレンジじするために、熊谷にある福祉カレッジに通学し、受験資格を取得したというではないか。中学校の勤務の傍ら、新たな資格にチャレンジするパワー、いよいよ彼の本気度が伝わってきた。偶然ではないが、私も同時期、社会福祉士の受験にチャレンジしていたので、彼の行動は実に励みになった。  いよいよ「リルの家」の開所が、いつかいつかと待ちわびるばかりであった。  ときが過ぎ去り、今春、教育ネットの会報誌より、淑則さんが病床にあることを知った。「リルの家」はどうなるのだろうか?と落胆を覚えた。そして、7月の訃報・・・。絶望感にかられた・・。  しかしながら、令和5年11月12日に私は、「リルの家」の開所式に参加することができた。  そこには、淑則さんの姿は見られぬが、彼の意思を受け継いだ、高橋代表、落合氏、内沼氏、まさに彼が最も頼りにしている方の姿があった。開所式には、リルも家の外から見守っていた。「リルの家」の敷地は広く、少し歩いた場所には、さらに広い畑が広がっていた。そこには、江戸時代寛永から新井家先祖代々のお墓が立ちそびえ、淑則さんもお墓の下から見守っていた。  「リルの家」は、老若男女も、一人でも仲間でも、社会人でも学生でも、大人も子供も、外国の方も、障害のあるなしも、誰もが集える拠り所&居場所である。そのモットーは、「あ(安心して過ごす)、き(期待と希望がある)、こ(個性を生かす)、さ(参加して体験する)、ま(学ぶ、学び合う)」であるという。  私の住む富山県では、「富山型デイサービス」と呼ばれる、年齢や障害の有無にかかわらず、誰もが一緒に身近な地域でデイサービスが受けられる場所であり、小規模、多機能、地域密着が特色であり、富山から全国に発進した新しい福祉サービスが展開されている。 「リルの家」と「富山型デイサービス」とは何か共通するものを感じるのだが、私も障害当事者でもあり、社会福祉士でもあり、共生社会実現を望む一人として、「リルの家」の家の設立を心から祝うとともに、その発展を見守り応援していきたい。 新井先生追悼文集作成中  現在新井先生追悼文集を作成中です。  8月下旬の教育ネット定例会で追悼文集を作成することに決めました。今年中に急いで作ることに決め、原稿依頼者を決め、追悼文の原稿を依頼しました。  新井先生は定年退職後、2年を過ぎようとするとき、病気で急に亡くなってしまいました。全盲でありながら、中学校の現場に戻り、中学校の国語担当の教師として指導力を発揮し、担任も務めて生徒たちを引きつけていた新井先生。後援会活動など幅広い活動をしていました。新井先生の活動は多くの人の心を動かし、勇気と元気を与えていました。私たちは、そんな中で追悼文集作成をする必要を感じました  10月中に依頼してあった原稿がほぼ集まりました。結局15名の方の原稿が集まりました。11月中に編集会議を持ち、追悼文集の形式などの構成を決め、写真なども何人かの方に依頼して集めました。そして、前書きやあとがきを書き上げて表紙を作り、30ページほどの小冊子が出来ました。これを印刷所に出すまでには、どこかに誤りがあるでしょうから校正に出す必要があります。12月10日に校正に出しました。その後に12月中旬に印刷所に出せればよいなと考えている段階です。現在数日後の16日の定例会で校正された原稿を印刷所にもっていく予定です。そして2023年の1月5日を発行日として完成させる予定になっています。発行部数は150部にしました。多くの配布先を考え必要な部数を考えたものです。