ノーマライゼーション・教育ネットワーク 会員通信 2023年夏号  ~2023年6月29日発行~ 【代表】新井淑則   【事務局】宮城道雄 〔ホームページ〕  URL:http://www.japan-normalizatio.com/ 連絡先〈 郵便 〉〒344-0041 埼玉県春日部市増富763-1 飯島気付             〈 電話 〉090―5994―5131(宮城)             〈メール〉rsj78162@nifty.com(宮城) 教育ネット第28回定期総会開催案内  会員の皆様、読者の皆様、教育ネット第28回定期総会が来る7月29日(土)に開催されることになりました。2023年度になり新型コロナはインフルエンザと同様に5類型になりました。コロナの患者数はなかなか減少していませんがコロナワクチンも6回目となっています。社会生活も従来通りに戻ってきています。教育ネットの活動も今後もしばらくは継続することになり新会員の加入もありました。教育ネットの活動の継続が求められています。皆様、第28回定期総会を実りあるものにして成功させていきましょう。  教育ネット第28回定期総会実施要項 日時 7月29日(土) 午後1時~ 場所 埼玉県障害者交流センター(048―834―2243) 第1会議室(2階)           プログラム 第一部 定期総会 12時30分 集合=さいたま新都心駅改札(昼食を摂るグループは11時45分集合)                   バス乗車 13:00 入場  会場入り口で体温測定、手の消毒の後 2階第1会議室へ 13:10~受付 13:15~     開会あいさつ                                   司会     参加者自己紹介 13:20~13:45 定期総会    2022年度経過報告    2022年度活動総括    2022年度決算    2023年度活動方針    2023年度予算 13:45~14:00 休憩 第二部 イベント   タイトル 「Nさん問題とその復職を考える 内容と目的 Nさんが休職に追い込まれた問題の理解・把握及びそれを解決させる方向を考える。 14:00                   司会者挨拶  14:05~  ①N問題の内容と経過報告 (岩井))   事務局によるある程度の方向性を提起 14:15~14:40  ②「N先生からの報告と訴え  (N)   ①私の希望すること・私が困っていること・みなさんに訴える 14:40~15:05  ③講和「鬱の実際と社会の現状」     )   講師 曲渕 祥子 (さいたま市心の健康せんたー)        精神保健福祉士   鬱や精神障害の基本的理解・N問題を考えるヒント 15:05~15:25  ④報告「東京都教委の障害者活躍推進計画の概容とその活用」 (宮城 )   N問題を解決するのに役立つ条項 15:25~15:35  休憩 15:35~16:25  ⑤討議 上記①~④を基にして、参加者が意見を出し合いN問題を解決させる方向を考える。  司会者のまとめ 16:25 定期総会全体の閉会の挨拶  *4時45分のバスに乗車) 新井淑則さんからのメッセージ   新井代表は、昨年3月に定年退職されました。しかし、体調不良のためこの間教育ネットの会合には、参加できませんでした。今年になって新井代表からDVDに、メッセージを録画して送ってきましたので、それを文章化しました。以下がその文章化されたメッセージですので、皆様お読みください。 新井淑則さんからのメッセージ 薫風の候 皆さまにはいかがお過ごしでしょうか。昨年3月31日で37年間の教師生活を終え、とりわけ25年間の視覚障害者教師として支えていただいたことに本当に感謝の気持ちでいっぱいでございます。あらためて、ありがとうございました。ただそのあと、メールや電話をいただいても満足に応えることができずに、お礼も今になったことを本当に申し訳なく思ってます。この1年間、私は本当に闘病の1年間で、日々、刻々と悪化する症状に押しつぶされそうになって日々を過ごしてまいりました。1年経って、やっとどうにか現実を受け容れつつあります。そんなこの1年の様子を聞いていただければありがたいです。 昨年3月31日に退職し、4月2日に8年間働いた盲導犬リルと別れをし、4月6日には毛呂山の埼玉医大の方へ行きました。年明け頃から脚の具合が悪くておかしいということで検査していました。ただ、外科的な悪いとこは見つからず、病名も決まらず、治療もできないまま1か月間の検査入院をすることになりました。その結果分かったことは、小細胞肺がんによるランバート・イートン症候群という希少な病気ということがわかりました。この病気は、本当に限られた症例しかないこと、重症筋無力症やALSのように筋力が徐々に衰えていくこと、嚥下障害や構音障害をおこすということでした。そして、まず、ランバート・イートン症候群は希少難病のため症例が少なく、確たる治療法も全くないため、原因となっている肺がんを叩くという治療を始めることになりました。 癌の治療はオーソドックスに抗癌剤と放射線治療の方法で、私の場合も4クールの計画が練られました。ところが、最初の1クール目の抗癌剤を4日間点滴すると、骨髄抑制が起こり、白血球が急速に下がってしまいました。このままでは危険であるということで、その後の治療はストップしてしまいました。2ヵ月間白血球数が下がったままで治療もなく、病院で過ごしておりました。日に日に迫りくる手足の痺れや硬直に恐れおののきながら、日々を過ごしていました。あせっておりました。そして、それ以上入院しながらの積極的な治療はできないということで退院することになりました。定期通院を続けて2か月ほど経った頃、どうにか白血球が治療可能な数値になり、毎日通院して25日間の放射線治療を行う事になりました。退院後の生活は、諸事情により自宅に帰ることは難しく、25日間通院しての放射線治療ということで、公私とも大変世話になった内沼浩美さんに引き受けてもらうことになりました。本当に内沼さんには献身的な看病と通院と全部お任せしてしまい、何ともいたたまれません。今、こうして生きて在宅で治療を受けられるのもすべて内沼さんのおかげと思っております。そして、25日間の放射線治療を完結せずに肺炎を起こし入院。退院したと思ったら、肺気胸を起こして右の肺がつぶれてしまいました。そこで2ヵ月半の入院。その頃には、重度の嚥下障害が進み口から食べられなくなっていたので、CVポートという装置を鎖骨下に埋め込み、24時間栄養剤を点滴する状態になっていました。ですから、3度の食事はそれ以来食べておりません。こんなふうにこの1年間は入退院と治療を繰り返した日々でした。 今在宅で、在宅看護を受けています。それから4月末から重度訪問介護も受け始めました。今まで一人しかいなかったので、やっと内沼さんの負担が分担されて少し減っているように思います。そして私もほぼ1年経った頃から、少しずつですが自分の障害を受け容れることができるようになりました。やっとです。ただくじけそうになって、負けてしまいそうになったこともあります。そんな時には生徒たちの前で言ったことを思い出します。ですから、私が退職の前に希望していたみんなで作る「リルの家」も何らかの形で実現したいと思っています。私にできることはもう限られていますが、何とか後継の人を作りたいと思っております。ですから是非とも皆さんには理解をいただいて、何とかやっていきたいと思っています。 あとは、妻は残された教員生活を全うしようとしています。子どもたちも社会でそれぞれやっています。今まで本当に世話になってきて本当に感謝しています。ありがとうございました。以上でこの1年の経過の報告を終わりにします。皆様におかれましては、くれぐれも健康に充分留意して日々を過ごしてください。大変ありがとうございました。 教育ネットの活動を振り返って                                        尾崎裕子  思えば 私が教育ネットの前身「障教連」に入会してから、約35年が経過した。  私が緑内障と診断されて、失明の不安に怯えたときに相談に行った所で、「全盲で高校教師をしている方がいますよ。」と聞き、その夜その方に電話した。「障害を持っていても、教員として働きたいと望んでいる人を支援する会」と聞いて入会を申し込んだ。  同じ悩みを持つ人たちが集まって会議を開くと、新聞に紹介されて問い合わせや入会申込者が増えて、定例会を開くようになった。  職場の上司や同僚に、障害に対する理解が無いためつらい思いをしている。教師の仕事が好きで就職したのに別の仕事を探すように言われて悩んでいる。何とか教師を続けられないだろうか。  その頃は「目の見えない人に、教師なんで勤まるはずがない。」というのは一般的考えだったから仕方なく退職していく人が何人もいた。   どうしたら障害を持っていても教師を続けられるようになるのか話し合った。国会や都議会宛てに署名活動を始めた。定例会のたびに、駅頭の通行者に声をかけ理解を広げ沢山の署名を集めて 国や都に提出した。  一方では教育委員会に面会を申し込んで担当者と話し合った。  しかし「前例がない。」「予算がない。」の一点張りでむなしく引き返す年月が続いた。障害を持つと盲学校とか障害児学級に等に転勤させられる人が多いが、新井さんには「新井さんには普通中学校の教師に戻る。」という固い決意があり、地域の講演会で話をした。新聞社やラジオ局の取材に応じたり、人一倍忙しい中で啓蒙活動を頑張った。そんな努力が報われて県会議員の中に新井さんを応援してくれる人が現れて、知事さんにも働きかけてくれ、更には地元町長さんの英断もあり、新井さんの願いが叶う日が来た。  何よりも新井さんの固い決意とあきらめない心と地道な活動が実を結んだ。  新井さんをモデルにしたテレビドラマが放映されたり、新井さん自身も数冊の本を出版したり。  よくもまあ頑張れたものだ。新井さんの努力には頭が下がる。生徒の声を聴いただけで名前が分かるようにと生越を録音して、何度も聞いて覚えたという。 平家物語の授業のために、平家琵琶を習って来て、生徒の前で聴かせた平家琵琶を聴きながら、平家物語を学習した記憶は生徒たちに長く生き続けるだろう。  新井さんの決意と行動力・それを支援してきた。教育ネットの仲間たち。もう「前例がない。」「予算が無い」とは言わせない。   大里暁子先生のライフヒストリー 中村雅也 1.まえがき  私は1989年に大学を卒業してから高等学校、盲学校、養護学校(当時)で教師として勤務してきましたが、2008年に自ら退職しました。網膜色素変性症のため視力が低下し、思うように仕事ができなくなってうつ病を発症、休職を繰り返す中で逃げるように学校現場から去ったのです。今思えば教職を続ける方法はいくらでもあったのですが、当時はそれを求める意欲さえ完全に擦り減らされていました。その後、教育に関わり続けたくて研究の道を選びましたが、障害教師の問題はずっと自分の中でくすぶり続けています。  私は現役当時から30年間ほどJVTや教育ネットなどの障害教師の会合に参加してきました。会には困難を抱えた人が新たに入会し、悩みを相談します。障害教師が困ることはだいたい似ているので、たいてい誰かが役に立つ経験談で答えてくれます。しかし、話された経験はその場にいる人には共有されますが、言葉はその場で消え去ってしまいます。そして、また新たな会員が来るたびに同じような質問が出され、同じような経験が語られます。先の障害教師たちの経験は後の障害教師を支える有効な力になります。なのに、それらが蓄積されず、共有されないのはとてももったいないです。研究職になってからは調査でさらに深く障害教師の話を聞く機会を得ました。私が調査で聞かせてもらった話も、そのごく一部を論文で公表しているにすぎません。貴重な障害教師の経験を共有財産として残すために、私は障害教師の経験を聞き取り、書き残し、多くの人たちに伝えることをライフワークにすると決めました。  今回、教育ネット事務局から原稿依頼があり、私の研究について何か書けということなので、ひとりの障害教師の経験を紹介することにします。本会の会員でもあった大里暁子先生です。大里先生が教職半ばにして逝去されてから、はや20年になろうとしています。すでに大里先生をご存じない方も少なくないでしょう。しかし、障害教師の道を切り開いてこられた大里先生の人生は忘れ去られてはならないと思います。残念ながらもう大里先生からお話を聞くことはできませんが、大里先生が書かれた手記と大里先生にインタビューした記録が残っていました。ご自身が実名で発信された記事なので事実誤認はないと思いますし、公開しても差し支えないと判断し、その資料をもとに大里先生のライフヒストリーを作成しました。この通信の読者の中には大里先生とのお付き合いが深く、大里先生のことをよく知っている方もおられると思います。もし本稿の内容に誤りがあったり、重要な事実が抜け落ちたりしていたら、修正しますのでぜひ教えてください。また大里先生のご命日をご存じの方がおられたら、教えていただけると助かります。  最後にみなさんにお願いがあります。先にも述べたように、私はひとりでも多くの障害教師にお話を聞き、その経験を記録しておきたいと考えています。しかしながら、自分の経験を改めて言葉にするのは時にはつらいことです。さらにそれを公表すれば思いもよらないリスクにさらされます。どなたにでも安易にインタビュー調査をお願いするわけにはいきません。この会員通信の読者には障害のある教師として貴重な経験をもっている方が多くおられると思います。もしお話を聞かせてくださる方がいらっしゃるなら、ぜひインタビュー調査をお願いしたいです。協力してもよいという方はメールか電話でご連絡ください。どうぞよろしくお願いします。 中村雅也 メールアドレス:0408nightowl@gmail.com 電話番号:080-1434-6587 2.大里暁子先生のライフヒストリー  大里暁子(1956-2004)は1956年10月8日に生まれた。9歳で若年性糖尿病と診断され、東京都の教員採用時に問題とされたが、3つの病院で糖尿病があっても健康上の問題はないという診断書を書いてもらって新規採用された。採用3年後、右眼に眼底出血を起こして出血性緑内障になり、白内障も併発、手術を繰り返すうちに光も感じなくなった。左眼は糖尿病性網膜症で、1988年の冬から急に視力が落ちた。近くにあるものがぼんやり見える程度で墨字の文書処理ができなくなり、1990年5月に視覚障害1級の身体障害者手帳を取得した。また、慢性腎不全のため、腎臓機能障害でも身体障害者手帳1級で、1989年から人工透析を週に3回受けている。  腎不全のため、1989年5月から病気休暇に入り、8月に一旦仕事に戻ったが、9月から再び病気休暇に入った。そして、同年12月から休職した。その頃、大里は点字を学び始め、指導員から全国視覚障害教師の会の存在を知らされた。代表の三宅勝に連絡を取って同会に入会し、同会東日本ブロックの大葉利夫(東京都立東村山高等学校数学科教諭、1995年に小金井北高高等学校に転任)を紹介された。その後、大葉の呼びかけで1991年10月に結成された「障碍」を持つ教師と共に・連絡協議会(障教連)にも参加した。  1991年10月、2年近くの休職の後、品川区立城南第二小学校に復職した。休職前は障害児学級の担任をしていたが、復職後は学級担任から外された。そして、校長から「職員室にいて、陰で仕事をしてくれる先生」と子どもたちに紹介された。だが、実際は何も仕事がなかった。同年10月末には人事異動調査で校長から盲学校への異動を勧められた。しかし、通勤時間がかかること、新たな職場より慣れた職場で仕事に専念したいこと、そして、通常の小学校で仕事を続けたいことを理由に盲学校への異動は断った。すると、都教委は眼科の診断書を提出させ、「現在の制度の中では、担任もしくは専科の仕事を一人でできない者は小学校の教師とはいえない」として、休職か「要配慮教員」かの二者選択を迫った。東京都では1991年度から指導力不足や精神疾患等により児童・生徒を適切に指導できない教師を要配慮教員とし、その教師を定数外として他の教師を配置するとともに、学校において指導者をつけて研修させる制度を実施していた。大里が休職も要配慮教員も拒否すると、都教委は分限免職もチラつかせた。障教連は都教委と交渉を重ねたが、1992年度に大里は要配慮教員となった。同年度の1学期は血管の手術や急性肝炎の入院で病気休暇を取り、7月下旬に学校に復帰した。仕事は「図書の時間」に点訳した童話を読み聞かせたり、音楽でオルガン伴奏を手伝ったりするぐらいだった。  大里は1991年10月から1992年3月まで夜間透析をしていた。この期間は休職後の勤務軽減として午前10時から午後2時までの4時間勤務だったので、夜間透析と勤務がなんとか両立できた。だが、1993年4月からは通常勤務となるため、勤務時間内に透析のための通院ができるように都教委に要望した。他方、都教委は1993年度は大里を要配慮教員から外すので、その代わりに休職して、通常勤務に耐えられるように体力回復に努めることを求めた。健康状態の把握のために都教委の指定医で受診することを命じられ、東京都職員共済組合青山病院で受診したが、診断書は眼科、内科共に休職の必要性はないというものだった。そして、1993年度もやはり要配慮教員となった。要配慮教員制度は障害による職務困難には適用しないことが障教連の都教委交渉で確認されていたが、大里の場合は他に方法がなく、便宜上適用したということだった。また一方で、指導力不足の点では適用されるというのだった。障害があっても仕事を続けられるように労働環境を整える「障害保障制度」を要求する障教連に対して、都教委は「現在障害者のための制度はない」、「小学校では担任か専科を一人でやる以外、新しい職種は認められない」と突っぱねた。  要配慮教員制度では、その期間に通常勤務に戻るために研修することが義務づけられている。大里は視覚障害と人工透析という二重障害の状態で、小学校でどのような仕事ができるのかを模索した。1993年度は研修として、音楽、および「図書の時間」で指導の可能性を探った。音楽では学級担任が行う授業に入り、一部の指導を行ったり、オルガン伴奏を手伝ったりした。「図書の時間」では担任が図書室で子どもたちに読書指導を行う中で、点訳した童話などの読み聞かせをした。また、障害児学級の授業を参観したり、指導に参加したりもした。  人工透析は夜間透析では午前中までダメージが残って仕事に支障が出る。そのため、やむを得ず年休を取って午後から通院していたが、この状態を続けると年休がなくなってしまう。障教連は病気休暇で人工透析の通院ができるように都教委と交渉を続けた。1993年11月、都教委に大里の主治医から、透析後は体調が回復するのに半日から一日かかるなど、夜間透析は適切でない旨の意見が出された。これを受けて、1993年12月、都教委は大里の勤務時間内の透析通院を病気のための有給休暇として認めた。  1994年度も大里の要配慮教員は継続された。大里の今後の仕事として音楽専科の道を探るために、同年度は研修として、音楽専科の教師と共に3年生の音楽を担当した。要配慮教員の適用期間は3年が限度だった。そのため、1995年度は要配慮教員は適用されず、教員定数内の一人として障害児学級の担任となった。その理由は、普通学級では児童の把握ができない、障害児学級は教師の数が多い、休職前は障害児学級の担任をしていたというものだった。障害児学級には大里の他に嘱託の教師が一人と週14時間の非常勤講師がついた。ところが、これらは大里の人的支援ではなく、学級担任と児童の指導のための配置とされていた。嘱託の教師や講師も大里の支援のための配置とは説明されておらず、講師からは「私は教師で、児童のためなら何でもやるが、大里さんのアシストはやれません」といわれた。  その後も障害児学級を複数の教師で担任したが、1996年11月には脳硬塞を起こし、後遺症が残るなど、体調は徐々に悪化していった。1998年度には、「もう気力がない。学校に通うだけでも続けられなくなっている。体調がどんどん落ち込んで、とにかく8時半から4時の勤務はきついという状態だから、結局、月曜、火曜と勤務して、火曜の帰る頃は熱が出たりして、水曜休んで、木曜は勤務しても帰る頃はくたびれて、金曜日休んで、結局1日おきにしか行けなくなっている」という状態だった。  都教委の人事異動規定で次年度には転任することを求められたが、大里はまた新たな学校で勤務を始めるのは無理だと考え、現任校に残ることを希望した。しかし、1999年度は別の区の小学校に異動となった。児童が6人の障害児学級に配属されたが、すでに担任教師は2人おり、大里は教員定数外で担任とチーム・ティーチングをするという異例の配置だった。大里への人的支援という点では明らかに後退だった。前任校では大里が教員定数内で障害児学級の担任に配置され、大里の人的支援として嘱託の教師と講師が措置されていた。一方、今度の学校では大里が教員定数外で学校には一人増員ということになったが、すでに担任がいる障害児学級では大里は“プラスアルファ”に過ぎず、大里への人的支援はなくなってしまった。一人でやれることをやるしかなかった。その後も脳梗塞の再発、糖尿病の進行による両下肢の切断など、疾病の重度化、併発により体調の悪化は続いたが、大里は最後まで教室に入り続けた。2004年逝去。 *本稿は「障碍」を持つ教師と共に・連絡協議会の機関誌『障教連だより ひとすじの白い道』創刊号(1993年)から第5号(1994年)、および視覚障害者労働問題協議会の機関誌『障害の地平』92号(1997年)、96号(1998年)、97号(1999年)、98号(1999年)に掲載された記事によった。       大宮駅1番ホーム、1人駅そばを食う   岩井隆  視覚障害者にとって主な移動手段は鉄道となる。使い慣れてくると、乗車・下車・乗り換えなどもさほどの苦労はしなくても良いようになる。困るのは、トイレと食事である。出物腫れ物、あまり利用したことのない駅での用足しはトイレ探しで一苦労。最近は音声によるトイレ案内が普及し、苦労も半減してきた。一方、食事の音声案内など聞いたことはない。私が専ら頼りにしているのは、自分の鼻である。コーヒー、和風の出汁、カレー、甘い香りなどが漂ってくると、店舗の存在だけでなく商う品まで想像してしまう。かと言って、うっかり入店してしまい、高い料金を支払う羽目になったこともある。電車の移動のついでにとる食事、そんなに高額は予定していない。手頃な料金で小腹を満たしてくれればいい。そうなると、立ち食いソバ・吉野家・セットメニューがあるカフェあたりが丁度よい。時間的に余裕がある時はカフェでコーヒーを楽しみ、時間がなければ吉野家か立ち食いそば屋になる。実は、立ち食いそば屋と言っても、この頃は座ってテーブルで食べられる店舗も多い。(本稿では、実態に合わせてこれらのソバ店を「駅そば」と記すことにする)さて値段・分量・味も気になるが、視覚障害者が心配するのが、使い勝手の良さである。その点、吉野家は最高、店の構造もシンプルで分かり易く、注文も支払いも楽で使い勝手が良い。逆に駅そばの店舗となるとカウンターだけの店・テーブル席が並ぶ店など構造はそれぞれに異なり、通路も狭い。さらに食券の購入から食器の片づけまで全てがセルフサービスなので、視覚障害者にとっては難易度が高い。  これは、1人の視覚障害者がこのハードルを越えようとした記録である。    いざ、駅そば  大宮駅には構内外に4つも駅そばの店があるらしい。その中の1軒が1、2番線ホーム(京浜東北線)でいつも出汁の香りを匂わせている。旨そうだ。時間は12時には少し間がある。店は混んではいないようだ。私はその店に入ることにした。  まず脳内で入店から終了までをシュミレーションする。最初に食券を買う。カウンターで食券を渡し注文する。そしてそばを受け取り、席を確保する。難しいのは卓上の箸立てから箸を取らねばならないことだ。できれば七味も掛けたい。食べ終わっても最後の難関、食器の片づけが待っている。あぁーこれら一連のハードルを独りで越えるのは至難の技だ。ここは、店員さんのサポートを受け、ハードルを1つ1つ越えていくしかない。もちろん自分でできることは自分でやる。できないことだけを手伝ってもらうのだ。実を言うと、これまでも何軒かの駅そば屋で、この作戦を試みてきた。  私は、ホーム上にある駅そば店の入り口と思しき所に立って「目が悪いんで、食券を買うのを手伝っていただけませんか?」と少し大きな声で店員さんに呼びかけた。店員さんの目に留まるように身体の前面に白杖を出したのはもちろんのことだ。初動作戦は自己の障害者アピールである。この作戦の成                       否が全てを左右する。店員さんが出てくれば締めたものである。おっ、上手くいった、            奥の厨房から店員さんが出て来るぞ。そして「何を召し上がりますか?」と私に聞く。                      店員はお姐さんだった。自販機はタッチパネル式で、お金の投入口も分からない。            視覚障害者にはお手上げだ。私は幾つかのメニューの中から埼玉そば(後述)を            選び、食券の購入をお姐さんにお願いした。これで、第1のハードルが越えられた。  お姐さんは私を立ち食いのカウンター席に案内してくれた。どうもこの店には立ち食い席しかないようだ。そして厨房に行き、もう一人の店員(この人もお姐さんだった)に食券を渡して私の注文品を伝えている。3分もすると、お姐さんは出来上がったそばを運んできてくれた。席を確保し、注文したそばを受け取り口まで取りに行くという第2と第3のハードルはこうしてあっけなくこえてしまった。  「お待ちどう様」お姐さんは私の目の前にそばの入った丼を静かに置いた。私は咄嗟に「七味をひと振りお願いします。」と頼んだ。このひと振りで味が違うんだな、と胸中で独りごちる。お姐さんはさっと唐辛子を振り掛ける。そして「お箸を割りますね。」と言って割った割り箸を手渡してきた。卓上から箸を探すという第4のハードルを越えられたのはありがたいが、割ることはないだろうとその時は思った。目が見えなくったって、箸くらいは割れる。私は幾分面白くなかった。その時は気づかなかったが、そこにはお姐さんの深謀遠慮があったのだ。  お姐さんが店の入り口に立つ白杖を持った老人を観たのは5分程前であった。目が悪いことはすぐに理解できたが、その他お爺さんのことは何も判らない。そのまま箸をお爺さんに渡すと、割り箸かどうかも分からず上手く割れずに戸惑うかもしれない=第1の懸念。逆に割って渡したら、目が見えないことをいいことに他の客が使った箸をよこしたのではないかとお爺さんは疑うかもしれない=第2の懸念。お姐さんの抱いた2つの懸念を一挙に払しょくしたのが、箸を手渡す際に言った「お箸を割りますね。」のひと言だった。う~む、恐るべし、お姐さん!  埼玉そばというのは、埼玉県産のそば粉で打ったそばではない。そんなそば粉を用いたら、偉く高いものになってしまう。かけそばに天ぷらを載せれば天ぷらそば、お揚げを載せてきつねそば。かけそばに埼玉名物の葱(深谷)とさつま芋(川越)の天ぷらを載せて、埼玉そばという訳だ。この店オリジナルのメニューだろう。はたして、この葱と芋の産地が埼玉県であるかどうかは私は知らないが。  そばは、機械撃ちで機械切りだ。口に含むと、麺の形状や腰の有無で何となく分かる。製麺所で作り、1度茹でた麺を店に運び、注文を受けて再び温めていると思われる。つゆは少し甘め、天ぷらなどと合うかもしれない。  おっと、ぐずぐずそばの品評をしている場合ではない。食べ終わったら、器を片づけ店を出なくてはならない。折りたたんだ白杖を伸ばし荷物を整えていると、お姐さんが「片づけます」と言って、丼を下げてくれた。シュミレーションした5つのハードルは、これで全て越えられた。私は「ご馳走様」と言うと 店を出た。するとお姐さんが後からついてきて「何処に行くのですか」と尋ねる ので「京浜東北線に乗ります」と答えた。お姐さんは私の手を取り電車まで案内 してくれた。店から出てきて私は方向がはっきりしていなかったのだ。大宮駅には どこにもホームドアがない。下手をすると線路に転落だ。助かった思いだった。    お姐さんと「合理的配慮」  お姐さんのこれら一連のサポートは合理的配慮だろう。目の見えない私が途惑うことなくそばを食し店を出た(電車まで乗せてもらうおまけも付いた)のだから。しかし、この小さな駅そば店の従業員にまで合理的配慮の研修や訓練が徹底しているとは思えない。事実、電車までのお姐さんの案内は、自分の肘を持たせ自分は半歩前を歩くという誘導の「基本のキ」ではなかった。お姐さんは学んだ通りに合理的配慮を実行したのではなく、お姐さんの所作が合理的配慮になっていた、と解すべきだろう。   では、お姐さんにそれをもたらしたものは一体何だったろうか? そば店を利用するお客さんに喜んでそばを食べてもらおうというプロ意識なのか、それとも、困っている人を見かねたお姐さんの親切心の発露なのか。ことによったら、身内に障害者がいるのかも知れない。詮索は不要だ。目の見えない爺さんが他の客と同じように、ごく普通にそばを食していった事実があるだけだ。その事実がありがたかった。  そこで自由律俳句を一句、見つけたぞ! 合理的配慮のしっぽ?               店 舗 紹 介            店 名  『駅そば』 (電話 048-645-3426)            場 所  大宮駅1・2番線ホーム中央            営 業 7時~21時(日曜は7時~19時) 無休            品書き  そば・うどん各種 ラーメンもあり