ノーマライゼーション・教育ネットワーク会員通信2018年春号


埼玉県教育委員会交渉報告

                                   森谷良悦  新井教諭については、今年度現任校の生徒数が減り、一学級減となり、そのため国語科の教員数も1名減となった。更に国語科の同僚が まだ若いこともあり、自分の仕事で精一杯で、サポートが一層困難になってきていた。そのような中で、新井教諭の訴えにより、2学期か ら週4日(20時間)非常勤講師が配置されることになった。担当の富田先生はよくやって下さったので個人的にはすごく感謝していると、 新井教諭は言っている。しかし、週4日20時間ではまだまだ不十分で、来年度は週5日、常勤講師の配置を希望したい。そこで、来年度、 常勤の講師配置を要望するため、2018年1月19日(金)1時から1時45分まで県教委交渉が行われた。県教委からは、小中学校人事課の馬 場氏、越氏、加藤氏、笹島氏の計4名、教育ネットからは、新井、飯島、岩井、丸山、宮城、森谷の6名とガイドヘルパー1名の計7名の参 加で行われた。  その内容は、「新井教諭の来年度の常勤講師の配置について確認したい。」(教育ネット) 「それについては、人事異動が関わってくるので今は言える立場にないが、町教委や校長に話をしておきたい。」(県教委) 「法律に基ずいた視覚障害者に対する合理的配慮によるティ-チングアシスタントを認めてほしい。」(教育ネット) 「それは規則などにはないので難しいが、実際には新井教諭に対しての配置と考えていいので、そのことを町教委や校長に話をしておき たい。」(県教委) 「今年度は校外行事に参加できなかったことや非常勤講師の富田先生が週20時間勤務で5時限以降いない、週に1日勤務のない日がある、 国語の教員免許を持っていないなどの問題があった。」(教育ネット) 「前任校と比べると、今年度は問題点が多かったとのことだが、それは加配や講師の配置というよりは、現任校の体制に問題があったと 考えられるので、そこについては、校長の方に話をしておきたいと考えている。」(県教委)  以上のような内容の交渉となったが、新井教諭が円滑に勤務できるような体制が確立されるよう強く望みたい。

ホームページ開設のお知らせ

 このほど、教育ネットでは以下の内容でホームページを開設しました。色々と工夫して内容を豊かなものにしていきたいと思います。 皆様のご意見をお寄せください。また、会の拡大発展のためにも生かして活用していきましょう。 ######################################### ノーマライゼーション・教育ネットワーク URL:http://www.japan-normalization.com/ ######################################### 新井先生の公開授業の様子などの写真を掲載しました。  1.私たちの考え 2.歴史  教育ネットの発足とその後の経過  20周年 年譜 3.事例  新井問題(1) 視覚障害(全盲)で復職  新井問題(2) 公立中学への異動を求めて  新井問題(3) 新井教諭、再び中学校へ戻って(2008年度から)  岩井問題    理不尽な休職要請を受けて  宮城問題   (視覚障害で、勤務継続)  山本問題(1)(車椅子使用で復職)  山本問題(2)(車椅子で勤務) 4.例会案内・報告 5.困ったら(Q&A) 6.資料(準備中)←「会員通信」に変更しました。 7.ビデオ(準備中)

特集 も う 一 つ の 実 践

 教育ネットの会員の中に学校での授業での経験を活かし、自分の勤務する(勤務した)学校とは別の空間で講演などの活動をしている 教師がいる。そんな何人かにその実践を報告してもらった。   《小学生へアプローチ》 「 題名 」私、視覚障害者をやってます       元中学校教員 岩井隆  動機は不純  4年ほど前に居住する市の福祉課から「視覚障害の体験を小学校で話をしてくれないか?」旨を頼まれた。詳しい話を聞くと、毎年 市内のいくつかの小学校で福祉をテーマにした総合的な学習をしているという。市の社会福祉協議会(以下、社協と略記)が小学校に協 力して準備や運営を手伝っているらしい。が、これまで講師を務めていた視覚障害者が高齢でもうできないという。困った社協はその 代理を捜してほしいと福祉課に要請した。そこで白羽の矢が立ったのが私である。私の元教師という素性を知る福祉課が電話をかけて きたのだ。その頃、福祉課に「リンクポケット」や「読むべえスマイル」の購入の補助を依頼しようと思っていた私は、これに応じれ ば好印象を持たれるだろうという小ずるい考えから軽く引き受けてしまった。  前座がご機嫌伺い  学校や年度によって多少の違いがあるが、概ね次のような形の体験学習になっている。体育館に4年生全員が(特別支援学級に4年 生の子がいればその子も)集まり、2時間の連続した事業になる。大きく2部に分かれ、第1部が私の話。第2部は白杖体験、その内 容は4年生の子が2人1組を作り、1人がアイマスクを付け白杖を手にして視角障害者の体験をする。もう1人がガイドとなる。体育 館内に設置された障害物を避け隘路や段差のあるコースを通り、一回りして元に戻ってくる。今度は2人が交代して同じように一周す る。アイマスクや白杖は必要数を社協が用意し、この体験を指導うするのが、ガイドヘルプ「あい」という視覚障害者のガイドやサポ ートを行っているボランティアグループである。この体験学習の内容や意義を分かり易く説明してから実際の子どもたちの体験に移っ ていく。このグループの会員10名くらいが体育館の所々に立ち、声を掛けて見守るのだから、大変な仕事である。授業のメインは第 2部の体験学習にあり、第1部の話は導入、いわば私はガイドヘルプ「あい」の前座を務めている。体育館のフロアーに体育座りで整 列している子どもたちの前に立ち、10~20分くらいの話をする。だが、相手は小学4年生である。人の話を20分も真剣に(聞い ている振りはできても)聞いている筈はない 。子どもがもっとアクティブに学習できるような進行を・展開を用意しなければならない。 (このように書くと、いかにもうさん臭い表記だが、簡単に書けば飽きさせないように工夫しているということだ。)  存外楽しんでいます  「私、視覚障害者をやってます。」こんな挨拶で話を始めたことがある。「私、視覚障害者になってしまいました。」くらいが普通 の挨拶なのに、子どもたちは面食らったろう。その戸惑いを見透かしたように私は「皆さんは4年生をやってますよね。」と言葉を続 ける。またまたおかしなことを言うと子どもたちは思うだろう。今ある自分の立ち位置を受動的なものととらえるのではなく、障害す ら能動的に受容しようという思いを、この後の展開でもにじみだそうという狙いを込めた言葉である。  また、開口一番クイズを出すことが多い。  「視覚障害とは目がよく見えないことですが、目の前が何色に見えるのかな? ア~エから選びなさい。 ア まっ黒 イ まっ白 ウ 淀んだ灰色 エ いろんな色のごちゃ混ぜまだら」シンキングタイムを取り、全員に手を挙げさせる。子どもたちは自分なりに考え てアイウエのいずれかに手を挙げる。(このクイズはインチキくさいと自分でもおもう。子どもにはアイウエどれも正答と最終的には 伝える)  「視覚障害者はテレビをみるのかな?」この質問にはいろんな答えが返ってくる。併せてその答になった理由も聞いてみる。多様な 答えが出てきておもしろい。  「日本全国に盲導犬は何頭いるでしょうか?」「音声信号って知ってる?」など正答があるクイズもちゃんと用意してある。  さらにパフォーマンスを入れたこともある。白杖を左右に振りながら子どもたちの前を歩いてみせる。「障害物があると、白杖で こうしてーー」などと説明しながら、体育館の舞台に上がっていく。舞台の上を歩きながら「一番危険なのはですね、駅のホーム、い つ落ちるか分からない、あっ!」と言うと瞬間に舞台の先端から飛び降りる。誤って足を踏みはずした振りをするのだ。本当に落ちた と思う子がいたら、上出来である。口だけで説明するよりも仕草で見せるのだから、強いインパクトでリアルな印象になるだろう。 (予め舞台の広さ・舞台の下には何もないことを確認しておくのは勿論のことである。)  中学生よりも反応がいいので、私もついつい調子に乗ってしまう。学級担任としては、きちんとした授業で障害や福祉を学ばせたく、 大事な話はメモを取るように指導しているようである。が、私の遊び半分の話はメモなど取るような話になっていないし、その必要も ない。担任の先生の中には私にあまりいい加減な話をされては、これまでの指導が崩されてしまうと危惧を抱く向きもあるかも知れな い。これに対してはゴメンナサイと言うしかない。  放埓の中の隠された禁忌(タブー)  そんな何でもありのような私の話だが、できない話・やらない話がある。(私と同じような立場で頼まれ小学校や中学校で話をして いる視覚障害者は何人もいる。その人達の中には下の①②③の語り・実演をする人がいることだろうとおもう。そのこと自体を否定 はしないが、私にはできない話であり、しないと決めている。) ①障害を持った辛さ・苦しさや差別の厳しさを訴える。これはできない。なぜなら私にはそのような体験がないからである。といって 目が見えない事が辛くないということではない。が、身もだえ地獄をさ迷うな苦しみを舐めた訳ではない。そんな私が物知り顔で訴え たとしても、底が見えすいてしまう。元々子どもたちは(教師も)目が見えないことにマイナスのそして深刻なイメージを抱いているだろ う。その子どもたちが私の浅薄な話を聞くのである。感じ取ることが、障害そのものへの恐怖であったり障害者への憐であってはなら ない。  ならば、その牢固としたイメージこそ揺すぶってみたい。子どもたちが、「体育館の前に立つ視覚障害者は面白いことばかり言って いる。こんな視覚障害者がいるんだ。」子どもたちの中にそんな認識が芽生えれば、私は役目の半分は果たしていると思う。 ②話のついでに、自分の趣味や特技の発表の場にする。これはしない。私のイメージだが、音楽を趣味にしている人に多いような気が する。大掛かりになると、ドラムのセットを持ち込んで、1曲2曲と披露することもある。目が見えなくなって習い始めたのですが、 見えなくても努力次第でここまでできますよ。というアピールである。そこには、皆さんもあきらめずに頑張れば何でもできますとい う含意もあるだろう。その善意は疑わないが、何か違うような気がする。プロならともかく、素人である。自分の演奏を聞いてもらう には、演奏会場を用意したり、友達に声を掛けて観客になってもらうしかない。経費もそれなりにかかるだろう。学校で呼ばれたから そのついでに1曲というのは、安直すぎないか? どこか子供だましの臭いがする。子どもたちへの礼を欠いているように感じてなら ない。 ③授業・体験学習の「まとめ」や「結語」に当たる言葉を言う。これも私はしない。  子どもたちの前に立ち、自らの障害・体験を語る人の存在を抜きにしてこうした授業は成立しない。出前授業だとかゲストティー チャーなどと呼ばれたりもする。それは単なるボランティアではない。そこには子どもたちに伝えたい思いがあるのだろう。  「一人一人みんな違うのだから、違っていいのだよ。」「誰もが人として生きていく権利があるんだよ!君も、君もだ!」「皆さんの ような若い人達が福祉のことをしっかり学んで大きくなれば、その頃には障害を持つ者も暮らしやすい世の中になっていることでしょ う。」「一人一人を大事にしないでいじめをするなんて、最も恥ずかしいことなんだ。」等々。こうした思いを伝えたいからこそ講師 を引き受けている人も多いだろう。  だが、考えてみれば、こうした思いを最も伝えようとしているのは、担任の先生であり小学校の教師だろう。だからこそ、総合的な 学習の骨組みを作り、社協など校外の人と打ち合わせをして、子どもたちに事前の学習を重ねさせてきたのだ。さらに事後の学習にも 結びつけていく。もし私が小学校の教師だったら、こうした伝えたい言葉は自分の口から子どもたちに聞かせたいと思う。外部の講師 が言ってくれることは嬉しくもあるが、寂しくもある。こうした事情を知る私は、言わないことを小学校の教師に対する最低限の礼儀 としたい。  私は、ガイドヘルプ「あい」の前座であり、社協や小学校のお手伝いをしているのであり、子どもたちにとっては実物の視覚障害者 という教材である。この立ち位置に徹して最後の挨拶をする。  「ええ、私は目が見えないだけなんです。その見えないことによってどうしてもできないことがあるんです。そのできないことを手 伝ってほしいのです。これから先、視覚障害者が困っているのを皆さんがどこかで見かけたら、声を掛けて手伝ってください。本当に 助かります。」   《高校生にメッセージ》 「 題名 」共に生きるとは              元高等学校教員 宮城道雄  昨年、2回ほど越谷北高校の生徒に「共に生きるとは」というテーマで話す機会がありました。2月には1年生1クラスに、また、 11月には3年生全体の400名に体育館で話をしました。以前に岩槻高校で同僚であった染谷先生が越谷北高校で勤務していて、ホー ムルームや学校全体の人権教育で障害者の講師を呼んで講演会を開くという事で私に連絡が来ました。染谷先生は岩槻高校時代は教育 ネット会員となり、教育ネットの集会などに何度も参加して居ました。学校内では人権教育を担当し、学校全体での講演会で車いすの 障害者を招いて講演会を主催したり、教員研修会に日本点字図書館の館長を招いて講演をしてもらっていました。その中で障害理解と 共に、共に生きる社会環境つくりの大切さを学ぶことが出来ました。その染谷先生の教え子で社会問題研究会の部長であったのが教育 ネット事務局長で頑張っていた桑原さんです。その染谷先生からの依頼があったので、私も学校現場から離れて大分経過しましたが、 自分が視覚障害者になってから障害者として多くの仲間と出会い共に生きてきた事を話す機会として引き受けました。  私が話せることは、自分が視力を失ってからどのように行動したか。視覚障害の人たちに出会い、障害者の世界を知り驚き、自分も 視覚障害者として生きられるように学び訓練を行ったこと。また周囲の人たちに理解を求めて働きかけたこと、そして目が見えなくと も教師としてどのようにやってきたか等であり、それらを話すことにしました。  40代になり、恐れていた通りに急速に視力が低下し、文字も人の顔も見えなくなりました。困難に直面し途方に暮れてしまった。 全盲のマッサージ師の方や視覚障害の教師に出会い、そのたくましさに驚いた。そこで、障害者として生きる方法を学んだ。白杖をつ いての歩行、音声ワープロの使用、点字の使用等、そして各種のボランティアの人たちがいることを知りました。それらの中からいく つかを話すことにしました。  40人に対して社会科教室で話す時よりも、体育館で400人に対して話す時の方が私は緊張しましたが、どちらの時も生徒はメモ などを取りながら真剣に聞いている様子でした。大変関心が深く集中して聞いているので驚きました。それだけ日常に障害者に接す る機会がないために興味と関心があるのだと感じました。  病気で障害になったときは落ち込んで途方に暮れましたが、障害者はそれぞれの目標を持ちそれぞれ生きがいを持って生きていま す。視覚障害者の歩行や日常生活について取り上げました。特に歩行ではこの白いものが重要です。折りたたんだ白杖を持って指示 し、これに注目してください。それではマジックですと一振りすると、折りたたんだ杖が伸びて白い長い杖となる。これを使って私た ちはこのように歩きます。白杖を前について左右にゆっくりと振り前を確認しながら少し歩いてみせる。さてこの白杖は二つの目的を 持っています。なんでしょうか。わかりますかと聞く。一つは白杖の先が目となり、前方を確認しながら歩くためのもの。二つ目は白 杖の所持者が目が見えない視覚障害者であることを表して周囲の人たちに知らせています。そこで白杖を持った人が信号で止まってい て、信号が青に変わったときは、青に変わりましたよと教えてあげましょう。さらに、白杖を持った人が一人で歩いていたら、何かお 手伝いしましょうかと言って安全な場所まで歩くのを補助してあげれば良いと思います。ガイドの仕方はガイドの方の肩につかまるか、 または腕につかまるかさせてあげるようにすると良いです。信号は音声信号が設置されています。信号が赤から青に変わると、とおり ゃんせとおりゃんせ等と音声が鳴り出します。それを聞いて渡りだします。一方前方が赤の時は、進行方向と直角にわたる横断歩道の 方がカッコウカッコウ等の音声が鳴っています。横断する方向によって曲目が異なっています。そして歩行のための歩道にある黄色の ぽつぽつの点や細長いものがありますが,あれはなんでしょうか。それは点字ブロックです。誘導ブロックと停止ブロックの二種類が あります。等と点字ブロックの説明をします。誘導ブロックの上に自転車が置いてあり、ブロックをたどって歩けないので困ったこと がありました。皆さん、そんなことにならないように注意してもらいたいです。  さて、視覚障害者になって知ったことは、点字で読み書きできることの素晴らしさ、そして音声ワープロ等のパソコンを駆使して見 えない部分をカバーできることの素晴らしさに気づきました。  点字は6つの点で50音を表し、さらに1ますまたは、2ます加えることで数字やアルファベットを表せるのです。そのぼつぼつの点 を指で触って文字を区別することが私にもできました。視力を失って必死で毎日点字に触れ、数か月すると何と読めるようになったの です。本当に我ながら感激したものです。そして、点字の教科書や点字本を読んで何とか教師が続けられたわけです。それに加えて、 朗読や点訳等の各種のボランティアの方々の力を活用できることに本当に感謝しています。それらのボランティア活動を喜びや生きが いとして取り組んでくれている人たちがいることに感動しました。私も朗読、点訳、学生ボランティアの支援を受けました。埼玉大学 のボランティアサークルの学生が10年以上現在までもサポートしてくれていることに驚き感謝しています。物理の実験のための模擬 実験を学生と一緒にやったり、黒板のまとめを模造紙に書いてもらうことは重要な授業準備でした。困っている人に対して、優しく補 助をしてあげようとする人たちに接することができ、困ったときは互いに助け合って生きるという事が自然に行われていることの大切 さを痛感しました。  障害の捉え方として、障害を身体的な欠損だと捉える立場があります。一方、車椅子の人にはスロープを作り、エレベーターを設置 して社会的な障壁を除去することが重要であり、障害とは社会的な障壁であり、それを除去することで、障害を意識しないで生きるこ とが出来ます。このような考え方に基づき、物的にも人的にも心的にも社会の環境から壁を取り除くことが大切です。それが障害者だ けでなく、お年寄り等の様々な人たちが共に生きられる社会を作ることになります。       《大学生への語らい》 「 題名 」 首都大学での経験から                   江口大輔  昨年の夏、卒業生が私を訪ねてきた。彼女は私が2年目に教えた生徒であり、現在は大学に通って、デザインを専攻していると言う。 同時に大学に在学する障害学生の支援スタッフの一員として活動していると教えてくれた。そこで私に頼みがあるとのことで、障害者 の立場で健常者と障害者が一緒に学習したり働いたり生活するには何が必要か、障害者の視点で話しをしてほしいとの依頼を受けた。 私は何か全身が震えるような感覚を覚えた。私が教えた生徒が、今こうして障害者の支援にたずさわっているということを知って、う れしかったからかもしれない。早速管理職と相談し、年休を利用して出かける分には問題ないと了承を得た。何よりも私に話しをして ほしいと依頼してきた彼女の心に感動したのだ。その点については下記で述べる。本来は10月末に話しをするはずだったが、授業の関 係で2ヶ月延び、12月22日、午後から私は首都大学東京へ出かけたのである。  広いキャンパスは南大沢駅から歩いて10分ほどの場所にある。駅から遠い大学のイメージと違い、驚いた。広いキャンパスを歩いて 図書館に行く。この図書館の一室に「ダイバーシティ推進室」という組織が活動する部屋があり、ここが障害学生を支援する場所であ る。到着すると7名ほどのスタッフと2名の障害学生が活動していた。私は「すごい場所にやってきてしまったな」と思った。こちら が緊張するような感覚を持った。大学の名前にも圧倒されたということはあったし、同時に部屋の中では音声読み上げソフトを使って、 何やら難しい数式を書いている視覚障害学生がいたためかもしれない。スタッフの中には看護師として働きながら学業に励んでいると いう女性もいた。聴覚障害の学生もいて、教師を目指していると言う。  まず一通り自己紹介とダイバーシティ推進室の役割についての話しを受けた。様々な障害を持っている学生に対して、スタッフが学 内でのサポート体制や必要に応じて学外組織との連係を行っていると言う。もう一つ驚いたのは、スタッフの代表者は鎌倉市に住んで おり、市内の公立中学校を卒業し、その際に現在も市内の中学校で活躍している先生(現在は管理職)に指導を受けたというのである。 私は世間も狭いものかなと感じた瞬間だった。  私が話しをしたテーマは、どのように授業をしているか、なぜ公立中学校で働いているか、現在の勤務の中で苦労したり悩んでいる こと、そして最も大きなテーマとして、障害者と健常者が一緒に働くこと、学ぶことは是か非か、という点である。  最後の点は大きな課題であるが、スタッフの方々は皆是であるべきだという意見であった。共に学んだり働いたりする上で、障害者 が当然のようにいてもいいという考えは誰もが持っておられた。私自身、あなたがこの学年に所属することは各面でマイナスになるか らと言われたこともある。そうした意味では障害者理解が進んでいる組織は少ないと思う。しかし首都大学東京では、障害を持つ学生 と健常学生が協力している様子を、ほんの一部分であるが私も感じた。授業でノートテイクを行ったり、支援スタッフを募集したり、 何気ない話しをしたり、必要に応じて学校組織と話し合い、学生の障害について理解を深めるなど、様々な協力を模索していると言う。 私に話しをしてほしいと依頼してきた彼女は、主に聴覚障害学生の支援にたずさわっているとのことだが、ダイバーシティ推進室に所 属するいきさつについて、帰りの電車内で話してくれた。  入学して間もなく、聴覚障害学生を支援するスタッフの募集を告知する掲示を何度か見た彼女は、すぐにスタッフ登録をした。そし てパソコンを使い、ノートテイクをしている。しかし一般教養について、自分の知らない分野のノートを書くのは難しい。その部分は どうやってノートをとればいいか、今でも試行錯誤している。彼女が登録するか考えた際、中学生の頃、視覚障害者の教師に1年だけ 教わったため、自分でも何か障害者のためにできることがあるかもしれない、そういう思いが、彼女の心に芽生えたと言うのである。 現に彼女はスタッフ活動と並行し、デザインの研究で視覚障害者にも使いやすいタンブラーはどういったものがいいか、現在の研究課 題として取り組んでいると教えてくれた。視覚障害者と言っても、先天的な人と中途の人がいるので、誰もが使いやすくするためには どうするか、アイディアを形にしている途中である。  この原点には、中学生の時に視覚障害教員に教わったことが生きていると言う。授業でも視覚障害があるから授業はできないだろう という気持ちはまったく持たなかった。授業も特につまらないと感じたことはない。先生の授業はとても聞いていて楽しかった、だか ら今度は少しでも障害者を支援する立場で活動している、そう教えてくれたのだ。実は私もこの直前まで、授業が自分でもつまらなく していると悩んでいた。しかし彼女の言葉に励まされ、授業を楽しくする必要性を再確認できた。私にとって、この機会は二つの意味 でうれしいできごとだったのだ。  私が1年だけだが教えた生徒が、障害者支援の一因として活躍している、私の存在が一人の生徒にプラスになっていること、そして 授業が楽しかったと言ってくれたことは、自身にとって激励になった。まして、教育現場にいる私たちに、何か突きつけられている問 題を、彼女は解決しようと努力している。教育現場では、私のような障害者と一緒に働くことを是とする雰囲気が満ちているのか。私 は被害者ぶるつもりはない。だが、そんな雰囲気はまだ十分ではないのではないか。あなたと働きたくないからという空気を感じない わけではない。その問題は、職場でどうとらえられてきたか。私が果たさねばならない役割は大きいはずだ。「人権」という言葉が大 きな地位を占めている現代社会において、教育現場がこの言葉に正面から向き合っているだろうか。改めて述べるが、私は被害者ぶる つもりはさらさらない。この問題にどう向き合うか、教育にたずさわる者に突きつけられる課題ということを、彼女が教えてくれたと いうことである。  この機会を通じて、改めて誰もが一緒に働く環境を整備していく道は険しいが、一方では私が教えた生徒が頑張っている、だから私 も頑張らねばならない、そう心に誓った。その機会を与えてくれた彼女と、首都大学東京のダイバーシティ推進室の方々に、心からお 礼を申し上げたい。   《障害種を超えて》 「 題名 」 知って欲しいのに知ろうとしない私            新井 淑則  昨年8月に、栃木県大田原市の市民講座の講師として講演をした。8月とはいえ、平日にもかかわらず300人近い人が、私の話を聞 きにきてくれた。講演の前の打ち合わせの際に、2人の手話通訳者の方とも打ち合わせをした。私のすぐそばで手話通訳をしてもよい かという申し出に、私が見えないからとはいえ、すぐそばでは気になるので舞台のそででやってほしいと言った。するとその手話通訳 者の方は引き下がらない。 「講師と手話通訳が離れていると、聴覚障害の方は手話を読むのが精一杯で、講師の人となり、表情も見ることができずに講演が終わ ってしまうのです。」と言われた。私はハッとした。  私が中学生の時、映画館で洋画を観た。確かシルベスタ・スターローンのロッキーのシリーズだと思う。洋画を映画館で観ることに 不慣れな私は、字幕を読むのが精一杯で、画面をよく見られない。その日にもう一度観るはめになった。手話通訳と講師が離れている ということは、中学生の時に観た洋画と同じだと思った。けれども、映画ならもう一度観ることができる。講演は一期一会だ。  昨年末に草加市の手話問題研究会という市民グループから、講演の以来があった。草加市の聴覚障害の方々も、私の講演を楽しみに しているといわれた。聴覚障害の方々が、視覚障害の私に関心を寄せてくれている。いわば聴覚障害者が視覚障害者を知ろうとしてい る。私は自分の障害のことを知ってほしいと言うが、他の障害を知ろうとしない。それでいて、ノーマライゼーションを語ろうとも する。  そんな折、朝日新聞の経済面に「ろう者の祈り」と題されたコラムが3日間載った。私は朝日新聞のデジタル版をパソコンで毎日購 読ならぬ購聞している。そのコラムには、ろう者の職場での差別や孤独が綴られていた。胸が締め付けられる思いがした。すぐにその ルポをまとめた本を買い、朗読ボランティアの方に読んでもらった。ろう者の悲痛な現状が書かれているところでは、朗読ボランティ アの方も感涙して言いよどんだ。  『ろう者の祈り -心の声に気づいてほしいー』 中島 隆著 朝日新聞出版である。それによると、ろう者にとって、手話は母語 であり、日本語は第二言語である。手話は日本語と語順も異なり、助詞(て・に・を・は)もないため、「赤ちゃんを産まれた。」と いった、誤った文章を書いてしまう。産まれた時から、日本語のシャワーを浴びることのないろう者は、日本語の文章を正しく書くこ とが苦手である。しかも、「赤ちゃんを産まれる。」ではなく「赤ちゃんが生まれる。と」手話で日本語を文法的に教えられる人は極 めてすくないという。このことが職場で、しばしば差別や蔑みの的になってしまうのだという。手話には、従来の「日本手話」と中途 失聴者のために日本語の語順に合わせた「日本語対応手話」の2種類があるという。  今年1月28日の草加市のコミュニティーセンターでの講演。私は前日、若手の同僚から習った手話のあいさつで始めた。「お早うご ざいます。私 名前 あ・ら・い・よ・し・の・り よろしくお願いします。」付け焼刃のあいさつの手話だが、他の障害を知ろうと いう人への礼儀のような気がしたからである。

障害教師の現代史、教育ネット20周年記念誌

中村雅也  ノーマライゼーション・教育ネットワークが結成されたのは1996年、一昨年には創設20周年を迎えたということだ。まずはさまざ まな困難を乗り越え、長年、教育ネットの維持、発展に力を尽くして来られたみなさんに敬意を表したい。発足当時、私もすでに視 覚障害のある教師として徳島県で勤務しており、障害のある教師の情報を求めて、関西、関東を中心に、全国に出かけることも多かっ た。20年前といえば、今にも増して障害のある教師の存在は稀有で、インターネットも普及していない中、障害教師の仲間に出会った り、情報交換をしたりするのは、簡単なことではなかったのだ。そんな中、私も教育ネットの集会に何度か顔を出した記憶がある。私 と同様に、貴重な情報と仲間を求めて、教育ネットにたどりついた障害教師も少なくないだろう。そして、そのような当事者団体なら ではの役割はずっと継承され、現在においてもその重要性は本質的に変わらない。このように、障害のある教師の問題について、先駆 的に取り組んできた教育ネットの20年にわたる活動が、『時代の半歩前を往く――教育ネット20年の軌跡』としてこのほど刊行された。 障害のある教師のみなさんが自ら執筆し、また、当事者や関係者から直接聞き取りを行った記録は、他の資料では検証できない貴重で 重要な歴史を鮮やかに物語っている。まさに障害教師の現代史がここにあるといってもよいだろう。  本誌は全6部で構成されている。そのうち、前半の3部が教育ネットの歴史を年代を追って記述したもので、第Ⅰ部が「障害者の権利 拡大の活動(1995年から2000年まで)、第Ⅱ部が「教育行政との交渉を続けて(2001年から2007年まで)、第Ⅲ部が「教壇に立つ教 師の運動(2008年から2016年まで)となっている。20年間にわたる活動が詳細に調査、記録されており、それらのすべてについてこ こで触れることはできないが、第Ⅰ部、第Ⅱ部、第Ⅲ部のそれぞれで印象に残った記事について、簡単に感想を記してみたい。  まず、第Ⅰ部であるが、ここで紹介されている大里暁子先生は、私にとっても忘れられない存在だ。何度かお会いした記憶があるが、 障害が厳しくなっていく中でも、いつも前向きで、教師という仕事に対する強い意志をもった方だった。視覚障害と人工透析という障 害をもちながら、教育委員会と粘り強い交渉を重ね、透析通院などの労働環境整備に大きな成果を上げられた。黎明期に障害のある教 師の権利保障の道を開き、拡充を実現して、教師を続けてこられた方である。ご病気のため、残念ながら在職半ばで逝去されたが、後 に続く障害教師に大きな足跡を残された。感謝を込めて、ご冥福をお祈りしたい。  つぎに、第Ⅱ部では、新井淑則先生の中学校転勤への長い運動を抜きにすることはできないだろう。新井先生は養護学校在職中に失明 し、そこからリハビリテーションを経て、復職される。その過程でご本人の多大な努力があったのはいうまでもないが、教育ネットの支 援活動が復職を後押ししたことも確かだろう。つぎに転勤した盲学校では、長時間の通勤を強いられ、新井先生の中学校への転勤が教育 ネットの重要課題の一つとなった。しかし、中学校への転勤はさらに困難な道だった。継続的な教育委員会との交渉、および多方面への 積極的な働きかけによってついに念願の中学校への転勤が実現した。このことは、2000年代における教育ネットの画期的な成果だったと いえるだろう。  さらに、第Ⅲ部からは、障害のある教師をめぐる状況が大きく変動しつつあることが読み取れる。2010年代に入り、全盲の江口大輔先 生が神奈川県の障害者特別選考で採用され、中学校に配属されたのだ。長年にわたり、中途障害となった教師を排除し、障害学生に教職 への門戸を閉ざしてきた教育委員会が、全国的に教育委員会の障害者雇用率の低さが指摘される中で、ようやく障害のある教師の受け入 れに取り組み始めたのである。とはいえ、採用はしても、採用後に障害のある教師が実力を発揮し、職務遂行するための支援はほとんど 講じられていない。そのため、障害のある教師は学校現場で孤立させられ、困難な状況に置かれてしまう。これは20年前から変わらない 課題だ。江口先生の事例でも、学校や教育委員会は全く有効な支援体制を構築できず、結果的に“授業外し”が常態化してしまった。障害の ある教師に必要な支援は、当事者が一番よく知っている。教育ネットは当事者団体としての実践の蓄積を活かし、学校や教育委員会に有 効な支援体制を提示した。結果、江口先生はチーム・ティーチングで授業を主導し、もう一人の教師がサポートするという授業体制を整 えることができた。支援にはまだまだ課題も多いが、江口先生と教育ネットの今後の取り組みによって、より有効な支援体制が構築され るに違いない。  奇しくも教育ネットが20周年を迎える2016年4月に、改正障害者雇用促進法が施行された。同法では、職務上の待遇について、障害を 理由とした不当な差別的取扱いをしてはならないことが規定された。なおかつ、均等な待遇の確保の支障となっている事情や、障害者の 能力の有効な発揮の支障となっている事情を改善するために、職務の円滑な遂行に必要な施設の整備、援助を行う人の配置などの措置を 講じなければならないとされている。すなわち、合理的配慮の提供が義務づけられたのである。今後、障害者の教員採用や中途障害の教 師の雇用継続が一段と増加することが期待される。そして、障害のある教師に対する合理的配慮を基盤とした労働環境整備、支援体制の 構築が緊要の課題として立ち現れている。このような現状に対して、教育ネットの20年の実践の蓄積は、まさに当事者の目線に立った支 援を構築するためのかけがえのない大きな力となるものである。そして、その貴重な実践を確実に継承する記録として、『時代の半歩前 を往く――教育ネット20年の軌跡』が編まれたことは、実践的にも、学問的にも、非常に意義のあることである。2年間にわたって執筆、 編集作業を重ね、本誌を完成された編集委員、および関係者のみなさんに改めて敬意を表したい。